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【無料記事】なぜ2002年は「理念なき大会」となったのか 20年後に明かされる「日韓共催決定」の舞台裏<1/2>

提供:広瀬一郎氏 

ホテルオークラでの直訴

――村田さんが選挙で敗れたタイミングでは、広瀬さんはまだ正式な招致活動のメンバーではなかったんですよね?

広瀬 というか、電通でもサッカーから離れていたからね。あの時、村田さんが選挙に敗れたことで仕切り直しになって、岡野俊一郎さん(当時JFA副会長。故人)が招致委員会の実行委員長になったんだよ。で、ホテルオークラでセレモニーがあったときに、僕は岡野さんに「ホテルに部屋を用意しています。10分でいいからお時間をください」ってお願いしたの。いちおう僕は、東大サッカー部で岡野さんの後輩だからね(笑)。

――すごい展開ですね。岡野さんには、どんなことを直訴したんですか?

広瀬 この招致活動は、JFA単体では絶対に無理な話で、国家単位でやらなければならない。そこで一番の問題が、招致議連(ワールドカップ国会議員招致委員会)。細川(護煕)政権の時に、JFAは小沢(一郎)さんに頼んでしまっていたわけ。でも、村山(富市)政権になってまた状況が変わったから、招致議連を改組しなければならない。でも、それはJFAだけでは絶対に無理。なので「政界や経済界にパイプを持つ人間を紹介しますから」という話をさせていただいた。まだ存命の方が多いので、具体的な名前は出せないけど。

――くどいようですが、それも電通の社命としてではなく、広瀬さんの個人的な判断?

広瀬 そうだよ。個人的にはワールドカップは日本に来るべきだと思っていたからね。でも、そもそもこういうことって、情報ルートにしても、オークラのスイートを借りることにしても、サラリーマンじゃ無理なんだよね(苦笑)。それからしばらくして、9月末くらいだったかな。会社から「招致委員会に出向してくれ」という辞令が出た。誰がそういう判断をしたかはわからないけど。

――なるほど。電通からは、何人の方が出向したんですか?

広瀬 僕を含めて3人。次長級と部長級の人がいて、僕はその下で広報部と企画部の副部長を兼任することになったの。広報はわかるとして、企画部は何をやるかというと、立候補するための企画書を作らなければならない。それが「リスト・オブ・リクワイアメント LOR)」。

――その頃、私が所属していた映像会社が招致ビデオを製作していたんですが、それもその一環だったんですね?

広瀬 ビデオはね、小倉さん(純二=当時JFA専務理事)が作ろうって言ったの。もともと必要ないものだったんだけど、98年のフランスが作ったのが非常に良い出来で、文化の香りが高いものだった。「これを超えるものを作りたい」という小倉さんの意向を受けて、たぶん初めて招致のためのプロモーションビデオを作成したんだ。これ以降、これがデファクト(スタンダード)になった感があるね。

――で、われわれが死ぬほど徹夜することになったわけですね(笑)。あのビデオは、かつてオンエアされていたCMの素材が多数使用されていましたけど、製作期間が限られていたからでしょうか?

広瀬 それもあるけど、予算のこともあるからね。石原(慎太郎)都知事のときに、2016年の五輪招致活動ビデオに10億円もかけたことが問題になったじゃない。普通に作ったら、それくらいかかるんだけど、日本は広告映像にお金をかけている世界有数の国なわけで、それを利用しない手はない。だから「これは営利目的に使いませんし、マスメディアにも出しません」と言って、映像素材を借りまくったわけ。もちろん権利関係の部分は全部、こっちで調整した。

――われわれが納品したビデオは、その後どうなったんでしょうか?

広瀬 95年の8月、インスペクション(視察)チームが来日する前にFIFAに渡した。招致活動費を負担した16の自治体やスポンサー用に日本語版も100本くらい作った。たぶんJFAでも保存しているんじゃないかな。

<2/2>につづく(8月31日19時更新予定)

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