改めて「シャルリー・エブド」-朝日新聞を添削する 4-(松沢呉一) -2,230文字-
「ヘイトクライムが多発するドイツ-朝日新聞を添削する 3」の続きです。
「シャルリー・エブド」を取り締まれない理由
Facebookが冗談や風刺を差別表現から除外しているのもまた合理性があります。法律でもそうなっている国が多いはず。明記されていないとしても、運用上、あるいは裁判上は考慮されるはず。「冗談や風刺は対象としない」としていなくても、「ヘイトスピーチとは何か」の定義によって、自動的にそれらが外れるようになっている法もありそう。
ここで「シャルリー・エブド」を想起しないではいられません。この件についてはもっと早く出そうと思って、ほとんど書き終えていたのですが、次のネタが始まってしまって、そのままになりました。「ビバノンライフ」ではよくあることです。
これを論じるためには、「信仰」をヘイトスピーチのカテゴリーに入れるかどうかの議論が必要なのですけど、ここでは現実に法はこの問題にどう対応できているのか、いないのかを見ていきます。
「信仰」がヘイトスピーチ規制法のカテゴリーに入れられている国においても、風刺表現をすぐさま処罰することは難しいことを確認したい。現に「シャルリー・エブド」の表現は一部を除いて、違法とはされて来ませんでした。
たとえば右の絵をもって、イスラムと同性愛をどちらも揶揄しているなんてことを言う人たちもいたわけですが、これは同性愛を忌避するムスリムを揶揄したものです(と私には見えます。おそらくフランスでもそう受け取った人たちの方が多いはず。二次的にはイスラムフォビアを強めた可能性は否定しきれにないとしても。これについては次回検討します)。
フランスの人権意識からすれば、同性愛者やトランスジェンダーがそれだけで殺されているイスラム圏のありようは許されてはならない。それこそが差別であり、ジェノサイドなわけで、信仰によるものであれば信仰も批判するしかない。
「シャルリー・エブド」が揶揄するもの
同性愛の否定はイスラムの一部の亜流、傍流が支持しているに過ぎないのであれば全体に拡大することはできないとして、イスラムとホモフォビアは結びつけることができないくらいに例外的な話かどうか。
同性愛に寛容なムスリムがいることや、歴史的に見てイスラムがどんな時代も忌避していたわけではないこと、イスラム国家でも同性愛を違法としていない存在があることを指摘して、「ホモフォビアはイスラムの信仰が必然的にもたらすものではない」という主張もあります。
しかし、多数のイスラム国家が同性愛を犯罪としていること、今なお死刑を処す国が複数存在していること、同性愛者を死刑にしているのはイスラム国家だけであることを見た時に、「イスラム=ホモフォビア」という見方をされるのはやむを得ない、むしろ当然だろうと思います。
同性愛者を処刑しているISISは決して、イスラムの信仰と無関係ではないでしょう。
もちろん、寛容な個人や集団に対してまで、そう決めつけることは不当だとして、現実を踏まえた上で、言語的に「イスラムは同性愛に不寛容である」とざっくりまとめることが間違いではないのと同じく、それを戯画化しても間違いではない。
キリスト教も等しく揶揄の対象
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