松沢呉一のビバノン・ライフ

私の知っている人はもう誰もおらん-徳島の初音さんインタビュー-[ビバノン循環湯 124] (松沢呉一) -5,940文字-

このインタビューも一九九八年か九九年のもの。「問題小説」の連載でこれを短縮したものを掲載したはず。

この時点で、本人によると六八歳。現在八十代半ば。さすがにもう辞めているだろうと思います。

二日にわたっているのですが、録音しないという前提でインタビューを許可してもらい、世間話をするように、のんびりと話をしてもらったため、そんなに深くは聞けていません。メモの時間がかかるだけじゃなく、メモしているところを相手が見てしまうので、互いに話に集中できない。そのため、方言もいい加減です。

長いですが、一度に出します。

 

 

徳島市の元赤線

 

vivanon_sentence雑誌の取材で徳島に行った。地元の風俗関係者によると、かつての赤線地帯では、今も営業を続けているという。

元赤線地帯は、吉原のように住所が変わっていても、古くからの名称で呼ばれることが多い。中には新住所で呼ばれるところもあるし、「新地」のような通称で呼ばれるところもある。この徳島の元赤線は住所は秋田町であり、戦前は秋田町遊廓と呼ばれていたが、現在、秋田町は、栄町、鷹匠町と並ぶ繁華街、歓楽街の地名として使用されており、特にこの一角には名称がなく、地元の人たちは「女郎街」と呼んでいたりする。

そして誰もが「女郎屋は行かない方がいいよ」と口を揃えて忠告してくれる。「ババアばっかりだよ」というのだ。

「だいたい五十代以上じゃないかな」

取材対象としては申し分ない。さっそく徳島に着いた初日の夜に出掛けてみた。

繁華街から離れ、薄暗く静かな住宅街に入っていく。やがて廃墟となったラブホテルが見えてくる。さらに進むと公園に出る。その周辺の暗闇に女たちが立っている。街娼なのか引き子なのか、近所の人が夕涼みしているのか、よくわからない。街灯がなく、離れたところからは、格好も年齢も判然としないのだ(翌日、車に乗った男と交渉をしているところを見た。どうやら直引きのようだ)。

さらに進むと、一見ありふれた民家の開けた戸から赤い光が漏れる。昔から「紅燈」と呼ぶように、この光は娼家の印である。

女たちは、道に立って声をかけるのもいるし、中に座っているのもいる。建物の中からの光しかないため、目の前に立っても、顔までは判別できない。派手にやらないようにしているのか、あえて顔が見えないようにしているのか。

その状態でも、「ババアばかり」という評判が正しそうなことまではわかったのだが、背景の光に照らされた髪の毛が今風の茶色に染められている女もいて、どうやら若いのもいるらしい。茶髪というだけで若いと思い込むのは早計だが。

一通り見物して、この日は引き上げた。

※写真は今うちにある花。このインタビューの途中で花屋が登場するので、今回は全編花の写真を入れてみた。インタビューの中で触れられているように、建物の中を撮影させてもらっているのだが、その写真は行方不明。

 

 

いずれはここも全部なくなるやろ

 

vivanon_sentence翌日の昼。一軒のうちの戸が開かれていて、中に女性がいることがわかった。おそらく七十代。引き子だろうか、経営者だろうか。それとも本人が今も客をとっているんだろうか。

中に入って声をかけた。明らかに警戒している視線をこちらに向けた。しかし、表情は優しげでもあって、これなら話を聞けそうだ。私は時間をかけて自分の身元を説明し、「テープをとらず、メモだけなら」という条件で話を聞くことができた。

初音さんはためらいつつも、話し始めた。

「そうやなあ、ここに来て、三十年以上にはなるやろな」

歯がないためにもう少し上にも見えるが、初音さんは六八歳だという。本当かどうかはわからない。

正確には本人も覚えていないのだが、彼女がここに来たのは、昭和三十年代末のこと。

「その頃は客がどんどんきよった。今はあかん。そごうさんやてあかんけん」

数年前に丸新という地元資本の百貨店が潰れ、徳島最大の百貨店は駅前のそごうであったが、先ごろそれも倒産。

「倒産する前から、どうも危ないというので、ずいぶん人が辞めとったみたいやな。あんな大きい会社が倒産する時代なんやから、この辺は全部とっくに倒産しているようなもんやわ(笑)。それでも、二、三年前まではまだよかった。去年から俄にひどなった。前は土曜がよかった。でも、今は土曜日も休みやろ。家族がおるから外出しにくくて、今は土曜もダメ。曜日を問わず、全部暇や(笑)」

こんな時間に店を開けていて客が来るとは思えない。この日は特に暑かったためもあるのかもしれないが、誰一人通らないのだ。

「そうやろ。商売にならんから、いずれはここも全部なくなるやろ。こんなんだったらしゃあないで。自分で建物をもっとる人はまだええけど、私みたいに家賃払っとったら、やっていけんわ。今は食べるので精一杯。もうどうしようもないと思ってる。いつも今月で終わりか、来月で終わりかって」

最初は「ここに座ってるだけ」と言っていた初音さんだが、今もこの店は商売をやっていることまではわかった。

 

 

九一歳の人も亡くなった

 

vivanon_sentence—ここにはこういう店が何軒くらいあるの?

「わからんな。三十軒くらいやないか。私は控えめにしとるから、外を出歩かん。よそのことはわからん」

こういう仕事をしている人の中には、自分のことを話しても、他の店のことはペラペラと話さない人がいるものだが、初音さんは本当に他店のこと、他人のことを知らないようで、関心さえないようだ。

「私の知っている人はもう誰もおらんな。すぐそこに九一歳の人がおったけど、この間亡くなった」

この人が現役で商売をやっていたのかどうかも初音さんは知らず。たぶん店を購入して、そこでそのまま隠居生活をしていたのだろうと思う。

「毎年毎年知っている人が亡くなるわ。入院している人もおるしな。私はまだ元気な方。この辺には、もう遊廓だの赤線だののことを知っている人はおらんのやないかな」

—ここはお姉さん一人でやっているの?

「そう。昔はお母さんもお父さんもいたよ。夫婦二人でやっとった。でも、その二人も亡くなった」

これは実の両親ではなく経営者のこと。「お父さん、お母さん」は遊廓時代から続く呼称である。

 

 

next_vivanon

(残り 3609文字/全文: 6160文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ