松沢呉一のビバノン・ライフ

戦争に全面協力した矯風会-『親なるもの 断崖』はポルノである 番外2-(松沢呉一) -2,696文字-

幕西遊廓について調べる-『親なるもの 断崖』はポルノである 番外1」の続きです。内容は続いていないですが。

 

 

 

戦争反対どころか、戦争支持を続けた矯風会

 

vivanon_sentence先に「宣戦布告を報じる新聞で笑う男女」を読んでいただくと以下がより理解できるかと思います。あの写真の意味はどうでもいいとして、戦時体制確立に婦人団体が大きく寄与したって点に注目。そこにおいて矯風会がどういう役割をしたのか、もう少し詳しく見ておくことにします。

廃娼運動を褒め称える『親なるもの 断崖』の時代は日中戦争、そして太平洋戦争に向かっていくわけですが、その戦争に積極協力したのが矯風会です。

矯風会は日露戦争で戦争を全面肯定し、主体的、積極的に軍部に協力し、「軍人課」まで設けています。以降、一貫して戦争協力してきたことはすでに書いた通り。

第二次世界大戦後、反省の弁を述べてはいますが、「一言も戦争反対の声を挙げ得なかった」(会頭のガントレット恒の言葉)などと、戦争反対をしたかったのにできなかったかのように見せかけています。どのツラ下げて。戦争賛成だったから反対の声を挙げなかっただけのくせして。

山田恒はイギリス人作曲家、エドワード・ガントレットと結婚してイギリス国籍となり、ガントレット姓になります(ガントレット恒子という表記もあって紛らわしいのですが、本名は「恒」のよう)。昭和十五年に日本に帰化し、岩登恒と名乗るようになります。

その立場から政府に異議を申立てることができにくかった事情は理解できるのですが、異議申立てをしなかったどころか、彼女は主体的に戦争に加担しているのです。

親なるもの 断崖』にはこんなことが書かれたページがあります。

 

 

おろかな政治家に支配された国民ほどあわれなものはない

満州事変が侵略戦争であった事実を国民が知ったのは敗戦後のことである

真実はかくされ 人々は戦争にかり出され

子どもたちは“平和”という言葉は学校で教えてもらえない時代が続いた

国民もまた神国日本というかごの中の鳥

隔離された異常な社会の中にあった

 

 

では、ガントレット恒率いる矯風会が、満州事変以降、どう振る舞ったのかを確認してみましょう。

 

 

海外からの批判をガン無視

 

vivanon_sentence残念ながら、ネットでは満州事変の際に矯風会がやらかしたことについて正確に書かれたものが見当たらないので、以前デマを平然と語る本として取り上げた久布白落実著『廃娼ひとすじ』(中央公論社・昭和四八年)から紹介しておきます。

 

 

この年九月に起きた満州事変では、上海の婦人団体、ロンドンの婦人団体から、日本の矯風会、またガントレットさんが力を入れていた婦人平和協会あてに、日本政府に注意して事件を拡大させるな、日本国の平和を望む旨の電報が飛来した。受けたわれわれとしては、急遽、理事会を開催して研究を重ね、「世界の平和確保とすべての国際間の紛争は平和手段によって解決さるべきものとなることを信ずる、我らは、今回、満蒙に発生せし事変を衷心より憂うるものである。しかれどもこの事変はいわゆる事変であって、不戦条約に抵触するものに非ざることを確信す、この事変が一日も早く合法的平和的手段で解決せられんことを要望す、日支両国婦人は今後、根本的親善をはかり、その最も愛する子女の教育において互いにすべての排他的行為を捨て、東洋平和の支持者たるべき責任をつくすべきものなるを信ず」の声明を発表した。

 

 

体裁のいい言葉を紛れ込せていますが、簡単に言えば、条約違反ではないとして、関東軍の行動を支持する声明を出し、海外からの批判をガン無視したのです。このあと矯風会は満州と上海に慰問団を派遣。久布白落実も派遣団の一人であり、上海のYWCAは「何しに来たのか」と不快感を露わにしたことが記されております。

 

 

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