「人身売買」大国ニッポン 2 〜 日本で生まれ育った高校生に「帰れ」という司法
児玉晃一弁護士(左)とウォン・ウティナン君(右)
■「まだ、日本で暮らしていきたいんです」
法廷は支援の人たちで埋まった。全員の視線が裁判官に向けられる。祈るように手を合わせ、”その瞬間”を待つ女性の姿もあった。
張り詰めた空気のなか、岩井伸晃裁判長が判決を読み上げる。
「主文。原告らの請求を棄却する」
裁判長の口から発せられたのは、たったそれだけだった。その一言で、なにかがぶつっと断ち切られたような喪失感が法廷内に広まった。多くの人が肩を落とす。傍聴席から立ち上がることができない人もいた。
「ひどい!」
退廷する裁判官に向けて、悲鳴のような声が飛ばされる。
原告席のウォン・ウティナン君(16歳)は、横にいる母親のからだを支えるように手を回し、ゆっくりと立ちあがった。いまにも泣き出しそうな表情を見せていた。
日本で生まれ、甲府市(山梨県)の高校に通っているタイ人の男子生徒が、不法滞在の母親とともに受けた強制退去処分の取り消しを求めた裁判で、東京地方裁判所は6月30日、その訴えを退ける判決を言い渡した。
判決の瞬間に何を思ったのか。
私の取材にウティナン君は次のように答えた。
──裁判に負けたということはすぐに理解できましたか?
「裁判長の言葉がよく聞き取れなくて、最初は意味が分かりませんでした」
──どの時点で理解しましたか?
「傍聴席から『ひどい!』と声があがったときです。みんなの怒っている顔、悲しんでいる顔が目に入りました。その瞬間に、ああ、裁判に負けたんだなあと思いました」
──横にいたお母さんも辛そうでしたね。
「母もしばらくは判決の意味がわからなかったようです。裁判長が退廷したとき、僕に『負けたの?』とタイ語で聞いてきたので、『うん』と小声で伝えました。母がすごくがっかりした感じだったので、とてもつらかった」
──どんな思いを……
「何も考えられなかったというか、とにかく悲しかった」
──でも、これで(強制退去)が決まったわけでもないですよね。当然、控訴することになるでしょうし。
「はい、今日もこうやって同級生のお母さんやお父さんが、駆け付けてくれました。すごく感謝しています。まだ、もう少し、頑張ってみたいと思います」
16年間、この日本で生活してきた。彼自身はどこにでもいる普通の高校生だ。いまさら「帰れ」と告げられたところで、「日常」を手放すことなど考えられるわけもない。
「まだ、日本で暮らしていきたいんです」
ウティナン君は少しばかり潤んだ目を指で押さえながら、そう付け加えた。
■母は人身取引で日本へ
ウティナン君の母親が「飲食店での仕事を紹介する」と話すブローカーの斡旋で、タイから日本に渡ったのは1995年秋だった。貧しい家族の生活を助けることができると考え、出国費用を借金してまかない、成田空港に降り立った。
仕事先が単なる「飲食店」でなかったことは、来日してすぐに配属された店で気がついた。
とはいえ、多くの人身取引被害者と同様、借金を抱えた身で逃げ出すことなどできるわけもない。母親は意に沿わない仕事を強要され、そのまま滞在期限を過ぎても日本にとどまることとなった。
その後、ブローカーが入管に摘発されたこともあり、山梨県に移住。そのころに知り合ったタイ人男性との間にウティナン君が生まれる。
だがしばらくして男性と別れた母親は、ウティナン君を連れて各地を転々とした。不法滞在の発覚を恐れて逃げ回る生活が続いたのだ。
ウティナン君は幼少期、部屋の中で隠れるようにして過ごした。だから幼稚園にも小学校にも通っていない。
11歳のとき。「学校に行きたい」というウティナン君の願いに応えるべく、母親は甲府市内で在日外国人の人権問題に取り組む市民団体「オアシス」に相談する。
ウティナン君は、まず「オアシス」で学習支援を受けた。それまで学校教育と無縁に過ごしてきたウティナン君は日本語も不自由であったばかりか、二ケタ以上の足し算もできなかった。しかし、「学ぶ」ことに楽しみを得たウティナン君は一気に学習の遅れを取り戻す。周囲も驚くほどに、きわめて短期間で同世代の子どもたちと同等の知識を身につけたのであった。
「オアシス」は地元の教育委員会と交渉し、翌年、ウティナン君は無事に中学校へ編入することができた。
友人も増え、学校生活を楽しむウティナン君の姿を見て、母親もこのまま日本で暮らし続けることを望むようになった。2013年、母子は東京入国管理局へ出頭し、在留特別許可の申請をした。
在留特別許可とは、法務大臣の裁量により、たとえ滞在資格はなくとも、生活歴や家族状況などを考慮し、人道的配慮で判断されるものだ。
だが入管当局はこれを認めず、結局、母子は強制退去処分を受けることとなった。
今回の裁判は、その撤回、取り消しを求めて起こされたものである。
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