赤鯱新報

【赤鯱探訪】望月嶺臣編①「指導者はずっと、なりたかったものでした」

LUA footballclub U-15監督
LUA soccer school  スクールメインコーチ
望月嶺臣
(2013~2016 名古屋グランパス所属)

名古屋グランパスでの在籍期間は実質3年間と短いが、その小柄な身体に詰まった魅力あるサッカーセンスは今でも印象に強い。滋賀の強豪・野州高校では背番号10を背負い、U-17日本代表としても活躍。その高い技術を買ったのは当時のストイコビッチ監督だった。その後、西野朗監督の下では出場機会を増やしたが、監督の解任後には山口、京都、そしてJFLのヴィアティン三重でプレー。まだ26歳と若いが、昨シーズンを限りに現役を引退し、現在は地元の滋賀県で子どもたちにサッカーを教えている。「中学、高校の頃から指導者になりたかったんです」と語る今では2児の父親は、自らが愛してやまないサッカーを伝え、育てる側に戦いのフィールドを移したのである。来春からは中学生年代のチームを率いる監督となる彼に、これまでのキャリア、そして今後の展望を聞きに行った。

赤鯱探訪・望月嶺臣編①「指導者はずっと、なりたかったものでした」

Q:まずは引退してまだ日も浅いということで、その話題から始めたいと思います。
「去年というか、決めたのは今年の3月31日でした。その日までに決めようと思っていたので」

Q:引退の決断自体は去年のうちにしていたのでしょうか。
「いや、そんなことないんです。自分の中ではその日までにということを決めていて、そこまでに現役続行についてもいくつかのお話をいただいていたんですけど、指導者はやりたいことだったので。後々には指導者をやりたい、その気持ちを上回るようなオファーが自分にとってはなかったので。悩んだところも少しはありましたけど、最終的には引退を選びました。指導者はずっとなりたくて、中学か高校の頃から思い続けてきたんです。中学生か、高校生年代の指導者をやりたいと」

Q:漠然と引退後は指導者かな、ではなく、以前からなりたいものだったんですね。
「違いますね。ずっと思っていたことで、だからそういう考え方で指導者の話を聞いているところもありました。そういうことも考えながらの選手生活だったので、今は続きというか、サッカー選手であったこと、その中でもいろいろなことを学べましたし、それをより還元できるのは指導者が一番であるとも考えていました。だから前向きにというか、サッカー選手をやりきったという感覚は全然ないんですが、サッカー人生という感じで引退後もずっと続いているものという感覚なんですね。自分の中では」

Q:現役生活への未練はまったくなかったのですか?
「未練…そうですね、そこはいろいろ考えたんですけど、様々なこともあって、今でいいんじゃないかな、って僕の中で思えたんですね。最終的には迷いもなかったですし、どちらかと言えば僕が引退に傾いていて、周りの人たちは『今しかできないことだから…』って感じでもっとやってほしいという反応が多かったくらいで。そこでまた考えたりもして、という感じでした」

Q:名古屋を出てからはJ2山口、J2京都、JFL三重と渡り歩いたわけですが、そのキャリアはどう振り返りますか。
「いやあ、やっぱりいろいろな部分で自分に力不足のところがありましたし、でも全然自分が通用しなかったのかといえば、通用すると思っていました。今でもその自信はもちろんあります。やってきたサッカーが間違いではないと思っているので、それを上手く表現できなかったということがあって、でも自分が試合に出て良いプレーをできることももちろんありました。それを長いこと持続できなかった、ケガもたくさんしましたし、いろいろなことがあったので、そこでなかなか難しさがあったということがありましたね。高校の時にもオーバーワークというか、うつ病というか、そういうこともあったんです。でもこれは現役の間は言わないでおこうと思っていたんです。プロになっても時々食事ができなくなったりすることがあって。疲労が溜まるとそういう風になったりしていたので、そこも難しさの一つでした。すぐケガしていましたしね」

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