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【THIS IS FOOTBALL】リアリズムとロマンティシズム

言うまでもないことだが、攻撃はボールを奪うところからスタートする。ボールを奪わないと攻撃にならない。ボクシングならば、手を出せばなんとか攻めになる。バレーボールや野球では必ず「攻撃のターン」が生まれる。バスケットボールやハンドボールもそうだ。しかし、サッカーの場合は、ボールは自分で奪いにいく必要がある。ボールを奪わずに相手の攻撃が終了するのは、ミスをしてくれた場合かファウル、失点した時、それくらいしかないのだ。

ここで問題になるのは、ボールを奪いにいく場所である。ペトロヴィッチ監督は相手を自陣に引き込んで、ブロックの中で絡め取る形をとった。森保監督も基本的にはそのコンセプトを踏襲した。なぜ、そういう選択をしたかといえば、それは基本的には攻撃のためだ。しかも、ボールを奪った後でも相手を自陣に引きずりこみ疑似カウンターの状況をつくる。天才としかいいようのない戦略である。なぜならば、自陣に相手を引き込みボールを自陣深くで回すことは、常に失点の恐怖がつきまとうからだ。それを可能としたのは、トレーニングにおける特異とも言えるシチュエーション構築によるポゼッション技術の向上である。

このテーマはまた、しっかりと語りたいと思うが、ここで言いたいのは「攻撃的」と称したペトロヴィッチ監督の「ボールを奪う場所」は低いということだ。その後、前からプレッシャーをかけてボールを奪いにいく戦術も浦和では試したこともあったが、基本的にはそれほどうまくいかない。彼のサッカーにおける「ボール奪取」はブロックをつくって絡め取ることだと定義化されている。その定義を確定させる過程には、リアルなサッカーの現実を反映させるというより、ミハイロ・ペトロヴィッチの中にある「こんなサッカーがやりたい」というロマンティシズムが明確に存在した。自陣深くでリスクを犯しながら相手のプレッシャーの中でボールをキープし、疑似カウンターの様相をつくるなんて、ロマン以外の何ものでもない。

では、城福浩監督のサッカーはどうか。

もしかしたら彼が表現したいサッカーが「守備的」だと思っている人も少なくないかもしれない。しかし筆者がみるところ、彼はリアリストであるにすぎない。指揮官がよく言葉にするのは「このチームの最大値」。今のタレントをどう組み合わせて、どういう形をとれば、もっとも強くなるのかを方程式化して計算していく、科学的な目でマネジメントしていくのが彼の特質なのである。激しいアクション、感情を露わにして、選手たちを厳しく激しく𠮟咤していくスタイルが表に出がちだが、彼は実にサイエンスティックだ。

ペトロヴィッチ監督の思考は明確に攻撃へと傾いていた。イビチャ・オシムの哲学を後継しつつ、「オシムさんよりも攻撃的だ」と自負するプライド。自身の考え方を明確に押しだし、それに合う選手を選択するのが彼のやり方だ。しかし、城福浩監督は違うスタンス。選手ありきで戦術を構築する。それはおそらく、年代別代表や甲府という限られた選手リソースの中で磨かれた習慣なのかもしれない。実際、昨年と今年とでは、全く違う戦術に取り組んでいる。また今年についても、アウェイ札幌戦までとその後とでは、考え方そのものが違う。選手のカラーだけでなく、チーム状況によっても変化を厭わない。それがリアリストの真骨頂だ。

ただ、今の指揮官は、ただのリアリストではない。考え方として、現実主義とロマン主義の中間に位置していると見ていい。その証拠は「大切なのは自分たち」という言葉だ。

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