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【僕が見てきたレジェンドたち】林卓人/溢れ出るハングリー・パワー④〜アテネ五輪最終予選と小野伸二、そして移籍

2004年3月1日、林卓人はアテネ五輪アジア最終予選のピッチに立った。

この大会は今とは違って変則的な集中開催方式。バーレーン、レバノン、UAE、そして日本の4カ国がまずUAEに集結して第一ラウンドを闘い、その後日本に場所を移しての第2ラウンド、その合計の戦績で1位になったチームが五輪の切符を得られる。日本代表としては当然、アウェイでの第1ラウンドでいかに戦績を残せるかが勝負の大きなポイントとなる。

この年代の選手たちはずっと「谷間の世代」と呼ばれていた。2000年のシドニー五輪は、中田英寿や中村俊輔、高原直泰ら日本サッカー史上稀に見る「黄金世代」が出場し、ベスト8に進出。しかしアテネ世代は、U-16ではアジアの壁に阻まれ、U-19はなんとかアジア予選を突破したもののワールドユースではそれまで続けていたベスト8以上という戦績(シドニー世代は準優勝)をストップし、決勝トーナメントに進めないという結果に。続く北京世代には将来性有望なタレントも見つかっていたこともあり、実力的に「谷間」であると言われ続けていた。ただ、そう揶揄されていたアテネ世代が中心となって結果を出したのが、南アフリカワールドカップだったという事実も忘れてはいけない。

シドニー五輪後を目指してチャレンジしたトゥーロン国際大会では小野剛がヘッドコーチとして若者たちを牽引。森﨑和幸と阿部勇樹、鈴木啓太のMF陣を軸とする4-3-3フォーメーションでアイルランド・南アフリカに勝利し、イタリアには敗れたもののドイツと引き分け、イングランドともPK戦の末に勝利。堂々、3位の結果を残した。だが正式に五輪代表監督となった山本昌邦は、流麗なパスワークを持ち味としたトゥーロン国際大会のチームを分解。フィジカルとスピードを重視し、「ボールを奪ったら15秒でシュートだ」と、カウンターで得点を狙うスタイルに舵を切った。ボールポゼッションを志向するチームなら絶対に欠かせないピースだったカズは、後の彼からは信じがたい事ではあるが「守備の厳しさが足りない」と評価され、アジア大会準優勝という結果を出したにもかかわらず、そこから主力を外されてしまう。

一方、林は2003年以降、順調に代表に招集され、2004年の五輪最終予選でもメンバーに選択された。そして初戦、バーレーン戦でのピッチに立つ栄誉に浴した。先発メンバーをご紹介しておこう。

GK:林卓人

DF:田中マルクス闘莉王、那須大亮、茂庭照幸

MF:今野泰幸、鈴木啓太、松井大輔、徳永悠平、森﨑浩司

FW:田中達也、平山相太

壮行試合で韓国を相手に松井と浩司のゴールで勝利し、チームは意気上がっていた。ちみなに浩司はこの時、左サイドでプレー。フィリップ・トルシエが小野伸二を左サイドにおいてここからゲームをつくったように、彼がサイドでチームの攻撃を司っていた。

ただ、初戦の緊張感からか、全員の動きが堅い。焦りの中でバランスを崩して、何度もピンチを招いた。しかし、そこで林がチームを救う。フリーでボールを運んできた相手との1対1、最後まで両足を地面から離さない望月一頼GKコーチ(当時広島)の教えを守り、しっかりと粘り強く対応して制した。「確かに仕事はできた」と自身も認めたこのビッグセーブが大きな価値を呼び、実力者・バーレーンと引き分け。続くレバノン戦は3-0と勝利し、最大の強敵・UAEとの決戦を迎えた。

彼らはここまで2連勝。ここでもし敗れるようなことがあれば、勝点差は4に広がり自力での突破がなくなってしまう。最低でも引き分け、できれば勝利して首位で日本ラウンドを迎えたい。しかし試合前日の3月4日、そこで大アクシデントが起きる。

チームを腸炎が襲ったのだ。原因は食中毒である。

このことを、山本昌邦監督(当時)はこう振り返っている。引用しよう。

これは大変なことになったぞと。といってそこで悩んでも仕方がない。勝ち点差が2のままなら、日本ラウンドで勝負ができます。そのラインだけは最低限、確保したかった。そのためには、まず負けない(試合の)入り方をしようと。前半は0対0、いや0対1でも仕方がない。とにかく、しのげるだけしのごうと。後半に入ってからが本当の勝負だと。フレッシュな選手を投入して追いつく。あるいは勝ちにいく。それが作戦でした」

この大会、酷暑が襲うUAEで中1日での3連戦という考えられないハードスケジュールで行われた。それだけでもコンディションコントロールが難しいのに、そこで食中毒に襲われてしまったのだ。

その原因は特定できていない。が、おそらくは野菜等を洗う時に使った水ではないか、とも言われている。確かに東南アジアや中東では、歯を磨く時の水から腹痛になった例も聞く。野菜を洗った水が付着して食中毒になることも、不思議ではない。

ここで山本監督は選手たちにハッパをかけた。

これは神様が与えた試練だ。オマエたちにアテネに出られる資格があるかどうかを神様が試しているんだ!」

浩司も林も、フラフラだった。林は後にこう振り返る。

「僕の症状はみんなよりもマシだったと思うけれど、でも試合中から脱水症状みたいになって、頭も重くて、フラフラで。最悪でしたね」

当然、試合はUAEのペース。何度も危ないシーンを迎えた。しかし、フラフラの日本の若者はここで信じがたい闘いを見せる。抜かれても追いすがり、シュートに対して身体を張り、酷暑の中でも走った。林も決定的なシュートに対して驚異的な反応を見せて何度も弾き返し、ゴールに鍵をかけた。そして84分、田中達也の突破から高松大樹が押し込み、奇跡的な先制。さらに87分、田中のミドルがGKの身体を弾いてゴールに吸い込まれた。2-0。勝った。

「絶対に諦めない。みんなでそう言い合っていた。気持ちの勝負だったし、だからこそ勝てたと思います」(林卓人)

帰国後、浩司をはじめ少なくない選手たちが入院を余儀なくされる。それほどの酷い状況で勝利したことが、「谷間の世代」をアテネに誘った。そして林は、最終予選全6試合、全てでゴールマウスを守りきったのだ。6試合で失点2。パフォーマンスの内容も目を見張るものがあり、彼のアテネ行きは間違いないと誰もが思った。

ところが、予選が終わった後、林は激しい腰痛に襲われる。診断は椎間板ヘルニア。ドクターは「すぐに手術が必要だ」と告知。しかし、ここでメスを入れて、果たしてアテネには間に合うのか。悩んだ。だが、選手生命を考えれば、選択の余地はなかった。手術を受けなくても痛くてプレーできないのであれば、メスを入れてリハビリに賭ける他はない。

5月25日、手術。アテネ五輪まではもう2ヶ月しかない。時間はない。

だが、やはり間に合わなかった。7月16日に発表されたメンバーのうち、GKはオーバーエイジの曽ケ端準、そして黒河貴矢の二人。林の名前は、バックアップメンバーの中にあった。

「アテネには行きたくない」

それが正直な彼の想いだった。出場できないのであれば、日本で怪我を治したい。それは、素直な感情だった。

断りたい。一度は、そう思った。

しかし、周りの反応は、林の予想とは違った。

「みんな、おめでとうって言ってくれるんです。その反応を見て、バックアップメンバーであっても悲観することはないんだな、と思った。行ってみないとわからないこともあるんだな、と。まあ、怪我した時期も状況も考えたら、バックアップメンバーに入れたのはよかったって、考えられるようにもなったんです」

だが、行ってみるとバックアップメンバーの現実は厳しい。五輪代表の統一コスチュームは、彼には渡されなかった。IDの種類も違うから、試合の時はドレッシングルームにも入れない。宿泊ホテルも別になることもあった。

だが、そんなことを考えるよりも、林はどうやったらチームのためになれるかだけを思おうと心に決めていた。

濡れタオルをつくって、トレーニングから戻ってきた選手たちに配って歩いた。タオルがあったまったら、また濡らして、絞って、渡す。この大会で林は無数の濡れタオルをつくったが、これが自分の仕事の1つだと考えれば、苦にならなかった。

「今までの自分なら、どうして試合に出られないんだと思ったんでしょうね。でも、あの時はただ純粋に日本に勝ってほしかった」

初戦のパラグアイ戦、決して内容そのものは悪くなかったものの、3-4で敗戦。特に致命的なミスで相手の先制点を導いてしまった那須大亮はひどく落ち込んだ。その那須に、林はこう言葉をかけた。

「髪を切りましょう。俺も付き合うから」

その時、側で見ていた小野伸二(オーバーエイジで選出されていた)が一言、静かに言った。

「卓人の言葉は、重いな」

小野はチームに合流してからずっと、林が何をやってきたかを見ていた。少しでも元気づけようと、お茶に誘って話もしてくれた。それは林が、チームの勝利のために、ひたすらに貢献しようと考えていたからだ。那須に断髪を提案したのも、そうすることで那須自身もチームも明るくして、チームの空気を変えたいと思った。小野には、それがわかっていた。わかってくれる小野伸二という男の大きさを、林は尊敬した。

五輪から戻ってきた林を迎えたのは、またしても下田崇という大きな壁との闘い。トレーニングから絶対にゴールを割らせないという気迫をもって立ち向かう先達に対し、林は挑戦して、挑戦し続けていた。その姿を、僕はずっと、見つめていた。

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