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【編集者の日常】校了の憂鬱と納品の感激

 

どんな仕事でも同じだが、本作りにとって最も重要な時期は「最初」と「最後」である。

最初とは「どんな本にしていくのか」という企画の段階。特集のコンセプト、インタビューの選定、コラムの構成等々、本の骨格をここで組み立てる。面白いか面白くないか、この段階で決まってしまうのは当然だ。

そして最後は、本作りの専門用語でいえば「校了」である。

つまりは校正完了。これ以上の修正ないと判断し、印刷に本の原版を回す(下阪)段階のことを指す。

この段階での仕事で本の精度を高めることになる。誤字の修正はもちろん、印刷にかけるための約束ごとがしっかりと守られているか、写真が適正に配置されているかを含めて、最後の最後、ギリギリまでチェックしないといけない。

紫熊倶楽部の場合、かつてこの最終チェックが甘く、誤字が多発していた。人の名前を間違えたり、数字を修正していなかったりで、刷り直しという事態になったこともある。この頃は編集者だけが校了作業を行っていたが、だからこそ甘くなった。その反省はある。

どんなことでもそうだが、当事者はどうしても思い込みが激しいし、捨てきれない。

重要な人や組織の名前にしても、新しく書く場合はチェックも慎重になるが、何度も書いている人は思い込みで「正しく書いている」と勘違いしがちだ。データにしても、例えば台風直撃下で行われた柏戦を2017年だと思い込んでいたが、昨日、佐々木翔に「2018年ですよ」と突っ込まれた。先入観とか思い込みとは、それほどに怖い。

新聞社には「校閲」という部署がある。

原稿を出す時には「読み合わせ」といって、1人の記者が原稿を読み、もう1人が字面で確認するという作業を行う。さらにデスクもチェックするが、それでも間違いを見逃すのが人間だ。

だからこそ、校閲という部署が必須になる。

誤字脱字だけでなく、事実誤認や認識の間違い、言葉の誤用なども含めて校閲者が拾う。当事者じゃないからこそ思い込みを持たず、冷静な視点で文章をチェックできるというわけだ。

ただ、それほどのチェック体制をつくっていても、間違いはなくならない。校正という仕事、校了という判断がどれほどシビアで難しいか。

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