ジュニオール・サントスをどう活かすかという考察の端緒/開幕に向けて
人はそれほどまでに、哀しげになれるものなのか。
ジュニオール・サントスに幼い頃の話を聞いた時、彼の表情からは感情が失われた。ピッチ上では闊達な空気を醸しだし、笑顔も多い。だが、幼少期の話や家族について話題が及ぶと、口はとたんに重くなった。瞳からは生気がなくなった。
8歳の時に母と死別。彼の他には8人の兄弟がいるはずなのに、全員が家から出ていった。仕事を転々とする父親との暮らしは貧困を極め、スパイクすら買えない。初めてのスバイクはフットサル場に捨ててあったボロボロのモノで、12歳の彼がそれを自分で縫って履けるように仕立てた。そんなスパイクであったとしても、彼には宝物だった。
ブラジルは経済的に言えば(コロナ禍になるまでは)高度成長の中にいる国だと言われていた。しかし、貧富の差は日本人が想像する以上に大きい。実際、パトリック(現G大阪)やハイネルらも貧困と社会不安の中で育った。彼らの育った街は殺伐とした空気に包まれ、殺人や強盗などが日常的だったという。だからこそ、パトリックもハイネルも安心して暮らせる日本でできるだけ長く働きたいと考える。
ジュニオール・サントスはバイーア州の田舎町で育った。朴訥とした、のんびりした雰囲気を想像していたのだが、どうやら違っていたようだ。彼は、幼少期の話をしたがらなかったのだが、象徴的だったのはサッカーについての話である。
ストリートサッカーで彼は「下手くそ」「やめちまえ」と罵倒されたという。スパイクどころか靴も満足に買えない状況で、それでもサッカーを楽しみたいという少年の心を深く傷つける言葉が連発された。それがどれほど、彼の気持ちを傷つけたか。それはほどなくして、少年がサッカーをやめた事実からも想像できる。貧困は人の心から余裕を奪い、優しさよりも攻撃を選択してしまうものなのかもしれない。
そういう環境は筆者自身がその生い立ちの中で経験してきたが、それでもジュニオール・サントスのように裸足でストリートを歩いたり走ったりするほどではなかった。今の日本人でそれほどの状況に陥った体験のある人は、ゼロではないかもしれないが、極めて少ないだろう。だからジュニオール・サントスがどういう境遇で、どういう思いで幼少期を過ごしてきたか、その本質は多くの日本人にはきっとわからない。もしかしたら、ジュニオール・サントス自身がそう思っていたから、幼少期の話になった時に感情を失ってしまったのだろう。
そんな生い立ちの中、幼少期からサッカースクールに通っていたわけでもなかったジュニオール・サントス少年が、どうやってブラジル全国選手権1部のチームに上り詰め、J1で13得点を炸裂させることができたのか。それはぜひ、現在発売中の紫熊倶楽部3月号でご確認いただきたい。彼の成長ストーリーは非常に興味深いものとなっていると自負しているが、ここで語りたいのは彼と共に歩く2021年の広島だ。
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