「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【トピックス】短期集中連載『永井秀樹、あの日、あのとき』Scene5(20.5.6)

Scene5.January 1, 1999

■ピッチ上で発揮されるべきリーダーシップ

東京都新宿区霞ヶ丘町、国立競技場――。

1999年元日、第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝、横浜フリューゲルスが清水エスパルスを2‐1で下し、栄冠を勝ち取る。横浜Fはこのシーズンをもって横浜マリノスとの合併消滅が決まっており、これが最後のゲームとなった。

永井秀樹は10番を背負い、スタメンフル出場で優勝に貢献した。1998シーズンは横浜Fの大黒柱として、32試合12得点のキャリアハイをマークしている。

このとき、永井は28歳の誕生日を迎える直前だ。選手生活の全盛期と言っていいだろう。

2年前の1996シーズンは、清水エスパルスで29試合3得点。ナビスコカップを制覇し、クラブに初のタイトルをもたらした。決勝は同じく国立競技場で行われ、古巣のヴェルディ川崎を相手に3‐3の激闘を演じ、延長PKの末に破った。永井は先発出場し、延長前半の途中でピッチを退いている。

一方、その時期のV川崎は1996シーズンの天皇杯で優勝するも、1997シーズンはJリーグで初の二桁順位となる年間15位(1stステージ16位、2ndステージ12位)に沈み、1998シーズンも年間12位(1stステージ6位、2ndステージ17位)と不振から脱せない。

主力選手の高齢化に加え、チームの新陳代謝が鈍っているのは明らかで、本来は世代交代を担うひとりとして永井を獲得したはずだった。清水や横浜Fで見せた輝きは、そのポテンシャルを有していた証明だ。

ところが、清水への期限付き移籍から復帰した1997シーズン、永井は19試合2得点と目立った働きができず、翌年、横浜Fに完全移籍となる。相思相愛で結ばれたにもかかわらず、本領発揮に至らなかった理由はどこにあるのか。

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