「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【トピックス】特集『ルーツ探訪 阿野真拓を生んだヴェルディS.S.小山』後編(20.10.19)

ヴェルディS.S.小山の石田浩之監督。

ヴェルディS.S.小山の石田浩之監督。

特集『ルーツ探訪 阿野真拓を生んだヴェルディS.S.小山』後編

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■一杯のかけそばよろしく、ひと玉のキャベツを

かつて、栃木県小山市をホームタウンとし、Jリーグを目指そうとするクラブがあった。いまから二十数年前のことだ。名を、ワールドブリッツ小山。

設立時は、元日本代表の戸塚哲也の加入などで話題を呼んだが、わずか2年ほどの活動で行き詰まった。母体となるチームがもともと拠点を置いていた宇都宮市に戻っても事態は好転せず、ほどなくしてクラブは解散する。

1998年、宇都宮から逃げるように脱出する軽トラックが一台。選手としてチームに所属した、楠瀬直木(現浦和レッズレディースユース監督)と石田浩之(ヴェルディS.S.小山監督)である。2年間、無報酬で貯金を切り崩す生活はもはや限界だった。めぼしい家財道具とサッカーボールをトラックの荷台に放り込み、ふたりは小山に舞い戻った。

新たにサッカースクールを開校し、生活を立て直す。それが楠瀬と石田が描いたプランである。最近まで現役選手としてプレーしていたネームヴァリューを見込み、それなりに集客できるだろうと目算を立てた。

場所は、小山市に近い国分寺町(現在は河内郡南河内町と新設合併して下野市となっている)の、照明設備のある立派なグラウンドを借りた。だいぶ値は張ったが、スタートが肝心だと奮発した。

ところが、当日、再出発を期したグラウンドに現れたのは、小学生がひとりだけだった。チラシを撒き、戸塚の名前など使えるものはなんでも使った。それでも、たったのひとりだ。

食うや食わずやの暮らしが始まった。スーパーでキャベツをひと玉買い求め、フライパンで炒めてふたりで分け、腹を満たすだけの夜もあった。

スクールを立ち上げた以上、儲けが出ないからと放り出すわけにはいかない。ひとりの少年に対し、大人がふたりがかりで手取り足取り指導した。

結果、ここで意地になって踏ん張ったことが、救いの糸を手繰りよせる。あそこは懇切丁寧、親身になって教えてくれると少年の所属するチームの選手たちが丸ごと通うようになり、評判が口コミで拡散。スクール生が集まり始めた。

そして、1999年から東京ヴェルディの支部制度がスタート。ヴェルディS.S.小山(以下、ヴェルディ小山)となり、ようやく運営が軌道に乗った。ジュニアユースのチームを立ち上げた際は、当時中2の富田晋伍(ベガルタ仙台)が第1期生である。

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