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「ゼルビア問題」を半世紀スパンで考える フットボリスタラボの講義より<2/2>

「ゼルビア問題」を半世紀スパンで考える フットボリスタラボの講義より<1/2>

絶妙なタイミングだった1993年のJ開幕

 FC町田ゼルビアの名称変更問題から始まって、1993年のJリーグ開幕を振り返り、さらにJSLが誕生した東京五輪直後の1965年まで遡りました。ここから2020年の東京五輪に、さらにはゼルビアにどうつながっていくのか。きちんと伏線を回収できるのか(笑)。ここから再び、話を現代に近づけていきたいと思います。1965年にスタートしたJSLは、その後はチーム数を増やしていき、1972年には1部・2部制になります。最終的には1部が12チーム、2部が16チームにまで膨れ上がりました。

 ただし、当初は企業スポーツとして始まったJSLも、やがてゆらぎが生じるようになります。要するに「社業に影響がないように競技を続ける」というアマチュア至上主義的な理想が、だんだんと形骸化していくわけですね。社業の時間は机に座っているだけで「練習が始まるまで苦痛で仕方がなかった」という元選手も、それなりにいたようです。その一方で企業スポーツではなく、ヨーロッパのようなクラブチームを作ろうという動きも出てきます。それが読売クラブの誕生。今から50年前、1969年のことでした。

 やはり日本サッカーのプロ化は、時代の流れから見ても不可避だったと言わざるを得ません。1986年には、奥寺康彦が西ドイツから帰国して古巣の古河電工に復帰します。ブンデスリーガでバリバリのプロ選手だった奥寺を、社員選手に戻していいのか? 当然、そういった疑義が起こるわけです。結果としてJFAは「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」という形で、事実上のプロ選手登録を認めることとなります。同時期、日産の木村和司もスペシャル・ライセンス・プレーヤーに認定されました。

 当時のJFAは、国内リーグのプロ化に消極的だったと言われています。一番の理由は「五輪に出場できなくなる」というものだったようです。しかしその五輪も、1992年のバルセロナ大会でプロ選手の出場が全面解禁となります。加えて憂慮すべきが、日本代表が国際舞台ですっかり勝てなくなってしまったこと。とりわけ、1983年に国内リーグをプロ化した韓国との実力差は、絶望的なまでに広がっていました。90年ワールドカップ予選では、日本は1次予選で敗退するありさま。今では信じられないでしょ(苦笑)?

 1960年代半ばに誕生したJSLは、間違いなく日本代表の強化を促進させました。その一番の成果が、1968年のメキシコ五輪での銅メダル。2012年のロンドン五輪で、なでしこが銀メダルを獲得するまでは、これが日本サッカーにとって唯一のメダルだったわけです。また、JSLの開幕からメキシコ五輪に至るまでの間に、日本では空前のサッカーブームも起こりました。いわゆる第1次サッカーブームですね。そういった栄光が、すっかり通用しなくなったのが90年代だったわけです。

 こちらは1993年5月15日、Jリーグ開幕セレモニーの映像です。日本サッカーがなぜプロ化したのか。そこにどのようなドラマがあったのか。それらについては、すでにさまざまな文献が出ているので、興味ある方はそちらをご覧ください。また、開幕セレモニーの知られざるストーリーについては、スポーツナビでコラムを書いていますので、そちらもご覧いただければ幸いです(参照)。ここでは1993年という絶妙なタイミングについて、私の見解を述べておきたいと思います。

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