宇都宮徹壱ウェブマガジン

なぜ「11人の山賊」は消されてしまったのか? バンディオンセの「その後」を追って<1/2>

 2月にスタートしたハフコミ。今月19日には、ガイナーレ鳥取の経営企画本部長「かーねる」こと高島祐亮さんを講師役にお招きして、第3回のウェビナーを開催した。第1回の左伴繁雄さん、第2回の祖母井秀隆さんは、いずれもハフコミのスーパーバイザーとしてのご出演だったが、今回のかーねるさんは初の外部ゲスト。それだけに会員の皆さんの反応が気になっていたが、概ね好評だった上に新たな入会者もいたので少しほっとしている。

 ハフコミのウェビナーでは、ハーフウェイカテゴリー(ここではJFL、地域リーグ、都府県+ブロックリーグと定義)の当事者の皆さんにとって有益な情報提供を目的としている。何をもって「有益」とするのか。多くの人は「成功のためのメソッド」を求めたがるだろう。とはいえ「私はこうして成功しました」という話は、それほど再現性が高いとは思えない。むしろ「私はこれで失敗しました」という話のほうが、会員の皆さんにとって有益なのではないか──。そんなことを、最近よく考える。

 いささか前置きが長くなった。今週は久々の「徹ルポ」ということで、関西リーグ1部所属のCento Cuore HARIMAにフォーカスする。ご存じないという方でも「かつてのバンディオンセ加古川」と言えば、思い出していただけるかもしれない。地域リーグファンの間では「バンディ」の通称で親しまれてきたこのクラブ、実は数々の失敗を繰り返してきたことでも知られている。すなわち、JFL昇格に失敗し、クラブ経営で失敗し、地域や行政との連携でも失敗してきた。

 失礼を承知で言えば「失敗談の宝庫」。しかしそれは、ハーフウェイからJリーグを目指すクラブに、さまざまな教訓や示唆を与えてくれるクラブとも言える。なぜバンディは、昇格に失敗し、経営に失敗し、地域や行政との連携でも失敗し、ついには愛着のあるバンディオンセ(スペイン語で「11人の山賊」)という名前まで失うことになったのか。それをコンテンツとして共有することが、このカテゴリーを追い続け、今はハフコミのオーナーとなった私に課せられた使命である。

<1/2>目次

*バンディオンセ加古川からCento Cuore HARIMA

J昇格のために「勝利給3万円」という羽振りの良さ

*「北信越リーグのほうがレベルは高い」と感じた理由

バンディオンセ加古川からCento Cuore HARIMA

 何の変哲もない、地方都市の駅前の風景が、そこには広がっていた。

 神戸から新快速で3駅目の加古川で各駅に乗り換え、1つ目のJR宝殿駅で下車。よほど近所に土地勘がなければ、関西人でも馴染みのない駅名だろう。住所でいえば、兵庫県高砂市米田町。Google Mapによれば、ここから徒歩20分ほどの場所に、目指すサッカークラブのオフィスがあるのだが、行けども行けども住宅街。だんだん不安になってくる。

「宇都宮さんですか? こっちです!」

 ふいに声をかけられて振り向くと、これまた何の変哲もない一戸建て住宅の扉が開き、若い男が手を振っている。Cento Cuore HARIMA(チェント・クオーレ播磨。以下、播磨)のGM、滝野将成だった。玄関でスリッパに履き替え、通された部屋で待っていたのが、播磨の代表兼監督の大塚靖治。1983年生まれの37歳である。

「ここは以前、スポンサーの方が自宅として使っていたところに、事務所兼住居としてお借りしている感じですね。僕と滝野は、ここの2階で寝起きしています」

 これまで、さまざまなクラブの事務所を訪れてきた。今でこそ立派な会社になった某クラブも、Jリーグを目指すと宣言した1年目は、害虫駆除会社の2階に最初のオフィスを構えていたことを覚えている。たいていのことには驚かなくなったが、これほど生活感あふれるクラブ事務所というものは、久々に感じる新鮮な驚きであった。

 播磨は現在、関西リーグ1部に所属している。昨年は、コロナ禍で半分になったリーグ戦で3位。ただし、FC TIAMO枚方、ASラランジャ京都と勝ち点13で並んでの3位である(得失点で枚方に、ゴール数でラランジャに、わずかに下回った)。とはいえ、播磨の名を知るサッカーファンは、それほど多くはない。このクラブは2019年まで「バンディオンセ加古川」を名乗っていた。こちらのほうが、むしろ通りはいいだろう。

「現在のクラブ名は、フロントに入っていただいている昌子(力)さんをはじめ、いろんな方々とアイデアを出し合いながら決まりました。イタリア語で『100の心』という意味です。本当にどん底の状況からリスタートする中、いろんな人たちに助けていただきました。そういう方々の心を大事にしたいという思いが、まずありましたね」

 昌子については後述するとして、まずは播磨の歴史を急ぎ足で振り返りたい。その始まりは、1976年に結成された、兵庫教員サッカー部。翌年に兵庫教員蹴球団となり、88年からはセントラルスポーツクラブ神戸の名で世紀をまたぎ、2004年からセントラル神戸、05年からバンディオンセ神戸、そして08年から19年まではバンディオンセ加古川として活動している。創設から今年で45年。その間に何度も名称変更を繰り返してきたが、15年間は「11人の山賊」を意味するバンディオンセを名乗ってきた。

 当然、ファンやサポーターにも愛着はあっただろうし、クラブ名変更にはそれなりに反対意見もあったはずだ。「僕自身、バンディオンセという名前には、誰よりも思い入れがあったと思います」と大塚。選手として、監督として、そして代表として関わってきたのだから、当然の話だ。ならばなぜ、アルファベット16文字を並べたイタリア語に、わざわざクラブ名を変えたのか? 私の疑問に、かすかな苦渋を滲ませながら、大塚はこう続ける。

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