宇都宮徹壱ウェブマガジン

なぜ「11人の山賊」は消されてしまったのか? バンディオンセの「その後」を追って<2/2>

なぜ「11人の山賊」は消されてしまったのか? バンディオンセの「その後」を追って<1/2>

<2/2>目次

*ラインメール青森が昇格したので「バンディにも可能性がある」

*バンディ最後の監督、薩川了洋はなぜ1年で退任となったのか?

*兵庫県協会がヴィッセル神戸でなく、あえて播磨に期待する理由

ラインメール青森が昇格したので「バンディにも可能性がある」

 大塚は、映画『クラシコ』の撮影が行われた2009年まで、AC長野パルセイロでプレー。翌10年から、久々に関西リーグに戦いの舞台を戻す。ただし、移籍先はバンディオンセ加古川ではなく、奈良クラブ。所属していたのは2010年から13年の5月までである。ちなみに「奈良劇場総支配人」岡山一成が加入するのは13年の8月なので、完全なすれ違いであった。大塚に奈良クラブ入団の道筋を付けたのは、当時プレーヤーを続けながらクラブをNPO法人にしていた、矢部次郎である。

「実は僕、出身は京都なんですけど、高校は奈良育英だったんですね。先輩である矢部さんから『奈良に戻ってこないか?』と声をかけていただいて。高校で同期だった石田雅人もいたので、それで関西リーグに戻ってきた感じです。ただ、この時も『北信越のほうがレベルは高かったな』とは思っていました。当時の奈良クラブは関西リーグで、奈良育英出身の元Jリーガーとかいましたけれど、そんなに練習しなくても上位争いをしていました。ですからなおのこと、そう思いましたね」

 奈良では、働きながらプレーを続けた。職種を尋ねると「産廃業とか、レストランとか、結構ハードな仕事でしたね(苦笑)」。それでも頑張り続けることができたのは、長野で感じていた「わが街にJクラブを!」という盛り上がりが、奈良でも実現できるのではないかという期待感があったからだ。だが、手術により2年間をリハビリに費やすこととなったため、出場機会が激減。現役を続けるか否か、迷っていた時にバンディの橋本から「だったら戻ってこい」と声をかけられる。30歳となって、7年ぶりの復帰であった。

「7年ぶりに戻ってきて、一番に感じた変化が、練習が昼から夜に変わっていたことです。神戸時代と違って、加古川に移ってからは仕事を斡旋はしてくれるんですけど、昼に練習で抜けることはできなくなりました。今度の仕事は、高砂市の公園管理課。公園の整備をしたり、道路の雑草を刈ったり、シルバーの方と一緒にやっていたという感じです。違和感ですか? そりゃあ、ありましたよ(苦笑)。でも、最後は気持ちよく終わりたいという思いのほうが強かったので」

 大塚は13年途中から16年までの4シーズン、現役時代の晩年をバンディで過ごすこととなった。そして前述したとおり、バンディは15年に全社枠で久々に地域決勝に出場。1次ラウンドは、ブリオベッカ浦安、新日鉄住金大分、そして札幌蹴球団と同組だった。結果は1勝1PK負け1敗の3位。1次ラウンド敗退に終わったが、大塚にとっては極めて大きな意味を持つ経験となった。

「この年、ウチに勝ったブリオベッカ、それからウチと同じく全社枠で出場したラインメール(青森)が昇格したんですよね。はっきり言って、当時のラインメールは、チーム力ではウチより下でした。それでもJFLに昇格できたことに、逆に僕は未来を感じました。『バンディにも可能性がある』って、その時は思いましたね」

 そして現役最後の年となった16年、前年に感じた「可能性」に懸けるか否かの選択を、大塚は迫られることとなる。バンディの運営会社、ウェルネススポーツクラブ加古川が10月末に資金ショートとなり、橋本が代表と監督を退任することとなったのだ。クラブにとっては、3年連続で昇格に失敗し、神戸から加古川に移転した08年以来の危機的状況。次の担い手がいなければ、そのままバンディは消滅する。

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