生まれる前に未来が決まっていた-『女工哀史』を読む 12-(松沢呉一) -3,228文字-
「女工たちが夢見た未来-『女工哀史』を読む 11」の続きです。
『あゝ野麦峠』に対する批判
女工の生活を描いたものとしては、『女工哀史』と並んで、山本茂実著『あゝ野麦峠』(1968)が知られる。明治から昭和にかけて長野県に多数あった製糸工場に出稼ぎに出た女たちから得た証言を元にしたものであり、映画で観た人も多いことだろう。
『あゝ野麦峠』においても、『女工哀史』同様の悲惨な生活、苛酷な環境が描かれているが、これに対しては悲惨さを強調しすぎているという批判がなされている。
食事もロクにとれず、栄養を補うために、蚕のサナギを食べる。病気になっても働かされて、働けなくなると、わずかな見舞金を手にして工場を追い出される。逃亡しても追われて工場に連れ戻される。
長野の製糸工場でも、そんな現実があったにもかかわらず、本人たちは、それを悲惨だとは必ずしも感じていなかったようである。
このサイトに、当時製糸工場で働いていた人たちの証言が出ている。
女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。
時間が経ったがために辛い記憶が薄れたということもあるだろうが、それにしても、食事や低賃金への不満はゼロで、一日十三時間から十四時間におよぶ長時間労働が苦しかったとするのはわずか3%しかいない。
製糸工場と紡績工場の違い
ここでは、『女工哀史』に取りあげられた女工たちと、『あゝ野麦峠』に描かれた女工たちとの環境の違いを指摘している。「あの本ほど長野ではひどくなかったのだ」と。これは半分は正しい。
『あゝ野麦峠』の舞台は製糸工場。対して、『女工哀史』で取りあげられているのは紡績工場がメインである。製糸工場は養蚕地にあったのに対して、原料が綿であった紡績工場は都市型の工場である。
製糸工場は近隣の農村部から季節工として労働力を集め、紡績工場は全国からかき集める必要がある。前借を出すしかなく、その分、厳しく取り戻そうとする。
また、小規模な工場が多かった製糸工場に比べ、紡績工場は大規模だ。それらの特性の違いから、どちらかと言えば製糸工場の方が長閑だったようである。
したがって、長野県岡谷市あたりの製糸工場は、紡績工場に比べると比較的マシな環境だった可能性があるのだが、それにしても、自殺者や逃亡者が出たような環境だったことには違いなく、外出が禁じられ、労働時間が長く、狭い寄宿舎だったことにも違いはない。また、リンク先にあるように、険しい山道を移動する間に亡くなるのもいた。
「それでも家の仕事より楽」と答えている。多くの場合、「家の仕事」は農業を指す。
おそらく、『女工哀史』で取り上げられた紡績工場で働いた女工たちでさえも、「苦しかった」と答えるのは、製糸工場よりは多いとしても、数%にしかならなかったことは『女工哀史』からも読み取れる。
なぜかと言えば、農家の暮らしより、工場の方が事実マシだったからだ。
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