『明治吉原細見記』に見る斎藤真一の限界-「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 番外1-(松沢呉一) -2,726文字-
もうひとつの『吉原炎上』
斎藤真一著『吉原炎上』の正式名称は『絵草紙 吉原炎上』で、「祖母 紫遊女ものがたり」という副題がつく。版元は文藝春秋。これが出た同じ1985年に河出書房新社から、斎藤真一は『明治吉原細見記』を出している。こちらはA4サイズの大判で、画集のような体裁だ。
『明治吉原細見記』の方が絵の点数がずっと多く、『吉原炎上』に掲載された絵はすべて『明治吉原細見記』にも収録されているようだ。どちらの本も絵を見せる体裁になっていて、同時期に同じ絵を掲載した本を出すのは出版のモラルとしてどうなのだろうとの疑問もあるのだが、ここではそこは問わないとして。
『明治吉原細見記』は、『吉原炎上』が出来上がるまでの、いわばネタばらしをしている。祖母・久野は吉原での生活を詳細には語っていなかったとあるのだが、一方で著者の母親は、娼妓たちはほおずきで堕胎していたことも知っていたとあるので、「私はどうだったか」は語らずとも、遊廓についての一般的な話は詳しく語っていたのではなかろうか。
それでもわからないところは、斎藤真一は資料を集めて空白を埋めている。『明治吉原細見記』は、その過程で得た吉原についての知見から、改めて吉原がどういうところであったのか、遊廓とはどういうものであったのかを説明する内容になっている。
斎藤真一、おまえもか
祖母の生涯を淡々と記述している『吉原炎上』に比して『明治吉原細見記』はそこから離れて吉原一般の話になっている分、遊廓の悲惨さ、娼妓の哀れさが強調されている。世間の見方に引っ張られているというか、媚びているというか。
著者は多数の資料に目を通しているため、事実は事実として記述している。例えば投込寺について、「実際には、楼ごとに墓があって、そこに埋葬されたようなのだが」と書き、「投込寺」という名称から、「まるで猫の死骸を捨てるように、おり重なって投げ入れられる」ようなイメージが作られてしまったと書いている。
楼ごとに墓があったらしきことは永井荷風も『夜の女界』で「□□楼代々の墓」というものが存在していたことを書いていた。妓楼単位で娼妓たちが葬られたものがのちに慰霊塔に無縁仏として共同でまとめられたということなのだろう。わざわざ妓楼は遊女たちの墓を作っていたわけだ。
にもかかわらず、遊女の遺体を門の外や中に粗雑に投げ込んだように思っている人が少なくなくて、そう書かれたものも多い。著者はそれを誤解であると指摘しているのである。ここまではおおむね正しい(さらに正確に言えば、「投込寺」という名称が先にあったがために誤解が生まれたのではなく、この誤解とともに「投込寺」という名称が生まれたとした方がいいというのが今現在の私の見解)。
ところが、「浄閑寺を『投げ込み寺』と名付けて平気でそう呼んでいたということは、遊女がそのくらい非道い扱いを受けていたことの証である」「遊女を扱う気持ちは「投げ込む」ような乱暴な気持ちだったことに変わりない」と唐突な解釈を持ち込んで、せっかく調べた史実を台無しにしてしまう。なんでこうなるかな。
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