俗悪文学の規制と個人主義—女言葉の一世紀 107-(松沢呉一) -3,292文字-
「ヨーロッパで排斥されたキリスト教教育が日本へ—女言葉の一世紀 106」の続きです。
国家より先に個人
湯原元一著『欧米教育界の新趨勢』では個人主義についても詳しく論じられています。欧米の教育ではまず個人の自立が教えられ、国家や社会についてはあとだと。もしくは自然についてくるものなので、あえてそれだけを教える必要はないのだと。
以下は緒言に出ているルーズベルトの言葉。
特に亜米利加などでは、嘗て或処でルーズベルトが青年を集めて、お前達は決して国家の事がどうの斯うのと云ふことを今から心配する必要は無い、唯自分の独立の出来るやうに骨折ればそれで好い、国家の事の心配なんどは自分の独立の出来た上からの事であると、かういふ事を言ったことがあるさうですが、亜米利加の教育は先づさういふ風であります。
(略)
英吉利では国家の為といふやうな事は別に箇条書で以て教へなくても済むから、それは教へないのである。
英米に対して、フランスでは共和制になってからの歴史が浅いため、政体維持のために現政治のいい点を強調していたのですが、その結果、過度の愛国者を生み出したため、次第にゆるくなっているという話が続き、以下のようにまとめています。
それからもう一つ注意して置きます事は、我国に較べますると西洋の教育は概して言へば、個人の完成といふ事に重きを置く点であります。唯今申した通りに、仏蘭西のやうな—又其他にも沢山例はあるけれども—国家といふものを第一にして教育を為す処もあるが、概して申せば矢張個人の完成といふ事に重きを置くといふのが今日の大勢である。生徒が学校を卒業して後、社会の生存競争に打克つだけの能力を備へて居れば、それがもう一番学校の教育の成績として誇るべきものである。如何にも個人主義で実利主義であるやうに思はるるけれども、其結果は吾々の心配する程悪いものでは無いのです。何となれば欧羅巴の如き文化の程度の進んだ所では個人の利害と社会の利害と、それから国家の利害といふものが殆ど一致して居ると言っても過言ではないかと思ふ。
この最後の文章には強調のための○が横についています。
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