松沢呉一のビバノン・ライフ

雑誌「バディ」以前と以降—心の内務省を抑えろ[13](松沢呉一)-2,699文字-

東郷健は嫌われ者だった—心の内務省を抑えろ[12]」の続きです。

 

 

 

 ドラァグクィーンが変えたもの

 

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ここまで書いてきたような背景がさまざまある中で、伏見憲明を筆頭に「伝説のオカマ」という表現を擁護した同性愛者たちには絶大な敬意を払います。東郷健という人物を擁護したわけではなく、あくまでこの表現を擁護したに過ぎないとは言え、彼らだって東郷健に好意を抱いていたわけではないですから。

あの時期だったから「オカマ論争」は可能になったのかもしれない。今回の「新潮45」の件でも、あれだけ大きくメディアが取り上げるようになったのは時代です。20年前ではこうはなりませんでした。その点では、いい方向で感慨深いものがあります。

始まりは杉田水脈という国会議員の発言であり、その発言の重みもあるのですが、東郷健自身、1970年代に社会党の向坂逸郎に面と向って病気扱いされた「事件」がありました。しかし、新聞もテレビも取り上げていないし、抗議が殺到したなんてこともなかったはずです。東郷健だから、ということもあるにせよ。

「オカマ論争」が起きた時代を象徴する存在はドラァグクィーンです。男性同性愛者の中にあったトランスや女装、女性性に対するフォビアを克服した。ここにおける女装は「女になりたい」というものではなくて、ジェンダーそのものを対象化し、無効化するものです。境界線を溶融させると言っていいでしょう。

作られた女性性をちゃかす目的の元で過剰なものではあれ、現に女装し、現に化粧もし、現に女言葉も使い、女のような仕草もします。つまりは」「オカマ」をも取り入れて、それも対象化していく。

シモーヌ深雪を筆頭に、それ以前から活動していたドラァグクィーンが日本にもいたとは言え、頻繁にクラブイベントが開かれるようになるのは1990年代半ばからだったと記憶します。

※東京レインボープライド2018よりマーガレット

 

 

実現しなかったディヴァイン来日

 

vivanon_sentenceたった今唐突に思い出したんですけど、1980年半ばにディヴァインを日本に呼ぼうという話がありました。言い出したのは新宿ツバキハウスじゃなかったかな。

しかし、あっちのエージェントに問い合わせたらギャラが高過ぎてあっさり頓挫しました。あっちではクラブシーンの超大物で、レコードもリリースするミュージシャンでもあったわけですが、ドラァグクィーンの存在がほとんど知られておらず、ディヴァインも知る人ぞ知るでしかなかった日本では客がそれほどは入らなかっただろうと思われます。

 

 

ディヴァインのオフィシャル・サイトより

 

それから間もなくディヴァインは死去。惜しいことをしました。

ディヴァインだって最初っから同性愛者たちに広く支持されていたわけではないだろうと思います。 存在を知られるようになったのはジョン・ウォーターズ監督「ビンク・フラミンゴ」での怪優ぶりです。私もこれで知りました。

 

 

 

映画用に女装していたのでなく、普段もああいう人だということは何かで読んでましたが(ステージ、クラブだけでなく、あの格好で外を歩いているという話だったはず)、ドラァグクィーンという存在を知ったのはちょっとあとのことです。

ピンク・フラミンゴ」でディヴァインは犬のウンコを食べてましたから、同性愛者からは東郷健同様に嫌われていたのではないかと想像します。

ちなみに早稲田にはカレーを売りにしたピンクフラミンゴという店があります。

 

 

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