松沢呉一のビバノン・ライフ

「私は不快」を押し通していいのは独裁者—Facebookの基準[2]-(松沢呉一)

 「ブランデンバーグ基準と明白かつ現在の危険—Facebookの基準[1]」の続きです。

 

 

法律と処分の基準の重なりと違い

 

vivanon_sentence私は、前回見たフェイスブックが「ヘイトスピーチ」の定義で揺れているの筆者よりもずっと規制範囲が広くていいと思っていて、具体的には記事の中で批判されている「国の法と民間企業とでは別のルールがあっていい」という考えを支持しています。

SNSにおいては、懲役になるわけでも、罰金を払うわけでもなく、最大でアカウントが削除されるだけですから、範囲はもっと広くていい。規約でその範囲を定め、「何をしていいのか、悪いのか」の判断が事前にできるようにしている限りはSNS独自のルールがあっていいでしょう。

これは社会一般で現在容認されている官庁、学校、企業の処分ルールに則った考え方です。懲戒の判断は、一般の法律を重要な基準にはしていますが、法律とイコールではなくて、あくまで法律は判断する際に参照する基準のひとつです。

したがって、違法であっても職場の処分対象にはならないことがあり、合法であっても処分されることがあります。また、処分対象になる違法行為だとしても、警察、検察、裁判所の判定を待つ必要は必ずしもない。法とは独立したものなのです。

職場や学校からいきなり追い出されるとそのダメージは大きく、よってその判断は適正な範囲に留まらなければなりませんが、私企業であればその範囲内で経営者側の裁量の幅が認められましょう。

SNSはそのダメージがうんと少ない分、裁量の幅はさらに広くていいというのが私の考えです。

事実、昨春公開されたFacebookのコミュニティ規約でのヘイトスピーチに関する規定は、法よりずっと幅が広くとられていて、特定集団やそこに属する個人への攻撃的表現は削除対象になっています。しかし、ザッカーバーグの発言通り、「ホロコーストはなかった論」はここには含まれず、これは容認される「論評」になろうかと思います。適切な判断です。

Facebookのコミュニティ規定のページ

 

 

日本はまだしも根拠法がある

 

vivanon_sentenceFacebookは世界同一基準ですが、定義が日本の法律にはすでにありますから、日本ではそれに従うのもひとつの手です。

処罰規定なき法律ですが、これに基づいてSNS上の処罰、つまりは凍結なりアカウントの削除なりを実行する。ヘイトスピーチ対策法における、ヘイトスピーチの対象は「本邦外出身者」に限定されているため、分野を拡大し、かつ双方向性のものにしてもいいでしょう(マジョリティ/マイノリティの区分なく、その属性で排除を求めるような言葉は禁止という意味)。

公的性質があり、そこでは未成年を含めたあらゆる人が存在しているため、SNSにおいてはゾーニングの工夫もあっていい。つまりは見たくない人は見ないでいいようにする。Twitterはそういう措置をしていますし、Facebookもその機能を強化しています。

こういう機能の強化には原則賛成です。利用者も極力これを活用し、見たくないものは見ない。

これに対して削除や凍結という方法はどうしても拡大をします。国によってはSNSの運営がヘイトスピーチを放置をすることで罪に問われたり、罰金の支払いを命じられたりしますから、運営は迅速に対応する必要があって、その時に怪しいものまでが削除されたり、凍結されたりすることは一定やむを得ない。

「規制しろ」と要求することによって、自身の投稿までが削除されることは甘受するしかなくて、あとは粛々と異議申し立てをするしかない。「規制しろ、しかし、自分の投稿は規制するな」は無理。

異議申し立てをすることでスムーズに復活するのであればいいとして、異議申し立てが認められないこともまたやむを得ないとするしかないのであれば、削除範囲はできるだけ狭くするしかないでしょう。

 

 

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