松沢呉一のビバノン・ライフ

差別意識に基づく不快感をも肯定するセクハラ定義—京都造形大学に対する訴訟[3]-(松沢呉一)

マネや黒田清輝を猥褻とする人々にさえ対抗できないセクハラの定義—京都造形大学に対する訴訟[2]」の続きです。

 

 

 

宗教・道徳・差別意識を拡大する者たちの武器「セクハラ」

 

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米国にはキリスト教原理主義者たちがわんさかいますから、その信仰のための難癖もわんさかあって、セクハラだとして同性愛表現を潰すことを試みるホモフォビアな人たちもいます。そりゃこういう人たちにスキを見せれば、すかさずつけ込んでくるに決まってます。

対して日本ではそんなことはそうそう起きないだろうと思っていたのですが、起きてしまいました。

京都造形大学を訴えた原告の背景に信仰があると言っているのではなくて、あの訴訟が明らかにしたのは、そういう意図のある難癖があったところで排除できず、セクハラという主張が通ってしまうってことです。

また、それが信仰を背景にしたものではなくても、自身の無知、自身の無理解、自身の怠惰さによって、なにもかもを「下ネタ」としかとらえられない人が感じる不快さや苦痛までが「セクハラ」というマジックワードであたかも当然の権利であるかのようにまかり通ってしまうってことです。

聴講生募集の案内に目を通す、そのテーマについて下調べをする、わからないことは検索する、あるいは問い合わせる、自分が思っていたものと違っていたら席を立つ、といった、多くの人が当たり前にやる対応をやらないことによって生じる不都合は自身で引き受けるしかないと思うのですが、それが通じない人が出てきた時にも学校側が屈服する理不尽が生じているのは、「セクハラ」のアバウトな規程が原因になってます。

京都造形大学のサイトより。本年の受験は終了してましょうから、とくに影響はないと思いますが、来年度は、ヒトラーのようなどってことのない風景画だけを描いていたいような生徒は減って、刺激的な「退廃芸術」をやりたい生徒が増えるかもね。でも、面白いことを教えようとしても、大学側が萎縮しそうですし、教える側も萎縮しそうです。

 

 

差別意識さえも肯定してしまうアバウトなセクハラ定義

 

vivanon_sentence原告は鷹野隆大の講座をも取り上げていることは重要です。前回、明治時代には、今見るとどってことのない裸婦画に腰巻きで隠した例を出しましたが、今の時代に腰巻きをつけざるを得なかったのが鷹野隆大であったことは記憶に新しい(愛知県立美術館の件。以下のインタビュー参照)。

「会田誠じゃセクハラとされても仕方がない」みたいなことを考えている人は、原告が記者会見で鷹野隆大を名指しているのですから、こちらもちゃんと見ましょうよ。講師に会田誠がいなかったとしても、原告は同じように学校側にクレームをつけたかもしれず、むしろ真意はこちらかもしれない。真意なんてもんはわからないですけどね。

米国では、ロバート・メープルソープの作品や女性アーティストによるセルフポートレイトも槍玉に上がっていることをナディーン・ストロッセンが報告しています。前者は「同性愛者だから不快」、後者は「女がそんな作品を撮ることが不快」ということだったりしても、「私は不快」をセクハラの要件としてしまう定義であれば、それらの差別的難癖、道徳的難癖もまた「セクハラ」で肯定されてしまうのです。同性愛者の表現、はしたない女の表現を潰したくて仕方がない連中のありがたい武器がルールの体をなしていないアバウトなセクハラの定義です。

ミロ・モアレはフェミニズムを偽装したアートをやっているわけですが(私の解釈です)、フェミニズムを偽装した道徳主義者が宗教右派と結託する形で、そういった表現に攻撃を仕掛けていることをストロッセンは指摘しており、こういう連中がセクハラだと主張した場合でもセクハラになってしまう定義が日本でもまかり通ってしまってます。

 

 

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