松沢呉一のビバノン・ライフ

「NEIN!(NO!)」の落書きは本当っぽい—ルート・アンドレアス-フリードリヒの『ベルリン地下組織』を疑う[下]-(松沢呉一)

書いた日記をどこに隠したのか—ルート・アンドレアス-フリードリヒの『ベルリン地下組織』を疑う[2]」の続きです。

 

 

 

物書きがやっていいこと、いけないこと

 

vivanon_sentenceたとえば今から7年前の日記を書くことを想像して欲しい。なんらかのメモ書きがあったり、報道を見直して思い出せることはあるでしょうから、週に1本か2本程度の日記は書けると思います。これが先月、先々月のことであれば、もっと書けます。まさにこれが『ベルリン地下組織』で、あとになるほど日数が増え、詳細になった理由ではなかろうか。

日記表現の貴重さは、その日付と内容との関連であり、それがリアルタイムに書かれたってことに最大の意味があります。あとから日記スタイルで書く方法もありますが、記録性の意義はどうしても落ちます。

「本書はメモをもとに再現した日記であり、リアルタイムに書いたものではありません」と正直に説明をすると、日記表現の貴重さは損なわれますが、日記ではないノンフィクションと同じですから、それが評価を落とすということにはならない。

しかし、リアルタイムに書いたものではないにもかかわらず、そういうものだと見せかけた場合は「この著者はウソをつく」ということになってしまうので、どうしても全体の信憑性を疑うしかなくなります。それこそシュピーゲルの記者のように、取材していない相手に取材したかのような記事を書いたら、他の記事も疑われ、通常、さして問題にならないようなことまでが問題ありにカウントされます。

なぜ日記ではないのに日記スタイルにしたのかと言えば「楽だから」でしょう。まえがきにあるように、戦中は、情報を得るのが難しいため、間違った風聞が流れます。その時点で裏取りすることは困難です。戦後になってそれらの情報は訂正されていますから、戦後書くなら正しい情報を調べなければならない。日記とは違って、それがなされた上での出版に今度は価値が出てきます。

しかし、日記であれば、その必要はありません。間違いがあっても、「戦中だから」「ナチス政権下だから」で逃げられます。調べなくても記憶で書けるスタイルなのです。

その方法をとること自体は責められるようなことではないと思うのですが、価値が落ちても、その場合は「当時は書けなかった日記を再現した」と正確に書くべきで、リアルタイムに書いたものに一切手を加えなかったかのようなハッタリをかますべきではない。婦人欄ではやってもいいかもしれないけれど、ジャーナリストの肩書きではやってはいけないことだと思います。

以上のように、この本は大要戦後に書かれたものだとほぼ断定できます。「一語一語が偽りのないもの」という宣言自体が偽りだった場合、どうしていいものやら。

※「Schlacht um Berlin – Stunde Null」(YouTubeより) これは反ナチスの落書きではなく、空爆が始まって、自分が生きていることを知らせるための告知です。着色しました。

 

 

批判的批評がないのは当然か

 

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この本の問題点について書いている人がいないかとネットで探してみたのですが、見つからず。この本の初版は1946年にニューヨークで出ていて、邦訳は1991年に出ています。そういった議論がなされる時期はとっくにすぎているので、見つからないのは当然です。

それでも書評は出ているので、少しは指摘している人がいてもよさそうですが、皆無です。高井としを著『わたしの女工哀史』だって、兼松左知子著『閉じられた履歴書』だって、私と同様のことを指摘している人は見当たらず。白バラについても、私が同意できる意見をやっと見つけたのは遺族と白バラ生存者の発言でした。

佐野眞一については、少しは指摘している人たちがいたようだし、『東電OL殺人事件』を読んだのは編集者が「ひどい」と教えてくれたのがきっかけです。山のようにおかしなことを書いてきたのですから、少しは出るでしょう。『親なるもの 断崖』は秋山理央が「ひどい」と教えてくれました。さすがに「ビバノン」を丁寧に読んでます。

私は気づいていなかったのですが、竹内久美子も私の前にわずかには批判している人たちがいたようです。これもいなきゃ困る。しかし、『みんなは知らない 国家売春命令』は今に至るまで批判している人は見たことがない。

それぞれ誉め称える人たちはその何十倍、何百倍もいました。そんなもんです。

その点、江戸しぐさのおかしさについて指摘している人たちは多数いて、今現在は批判が肯定を凌駕しているでしょうが、それはすでに潮流ができているからですし、本にもまとまっているからです。今江戸しぐさについて批判している人たちの99パーセントは自身の力だけではそれを見抜けなかったのではないか。すでに確定しているために、「どうしてこんなもんに騙されるのだろう」と今になって思えているだけです。さもなければああも広がるわけがない。

我が闘争』を読んだ私が「どうしてこれに騙されるんだよ」と思えるのは答えが出ているからだと繰り返し指摘してきましたが、私だってそんなもん。

江戸しぐさについては一冊通して読めば、私の力だけでおかしいと気づけたとは思いますけど、現に読んでないので、実際にどうだったかはわからん。

 

 

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