松沢呉一のビバノン・ライフ

抵抗運動の成果はほとんどなかった—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[3]-(松沢呉一)

ガードが甘くて処刑された人たちとガードをしても処刑された人たち—ビラがつないだミュンヘンとハンブルク[2]」の続きです。

斜体のかかった人名は「白バラ・リスト」に項目がありますので、詳しくはそちらを参照のこと

 

 

 

ハンブルク・グループのカール・シュナイダーは語った

 

vivanon_sentenceH. フォッケ /U. ライマー著ナチスに権利を剥奪された人びと』に白バラが取り上げられています(この本では「白バラ・ハンブルク支部」と表現されている)。

よく知られている白バラ本体については軽く触れるに留め、ハンブルク・グループの生き残りであるカール・ルートヴィヒ・シュナイダーのインタビューが再録されており、出典がわからないのですが、戦後間もない頃のインタビューではなかろうか。

このインタビューは、はっきりとした形ではないですが、ハンブルク・グループ、あるいは白バラの失敗を総括したものとも言えて、大変興味深く読みました。その部分に触れる前に、彼はビラによってどんな経験をしたのかをまず見ておきます。

カール・シュナイダーも白バラのビラで逮捕された一人です。ハンス・ライペルトがハンブルクに持ち込んだビラの複製と配布に関与しました。カール・シュナイダーを含めて、同時に捕まった仲間たちの大半が死刑求刑され、片っ端から死刑にしていくことで悪名高き民族法廷で裁かれることになってましたが、ショル兄妹らとは違い、こちらは時間をかけています。白バラは拙速に処刑したことによってグループの全貌がわからないままになってしまったことの反省かもしれない。

その理由がなんであれ、すぐさま裁判、すぐさま処刑じゃなかったから彼は戦後を迎えることができました。

カール・シュナイダーは18ヶ月拘禁されたところで米軍に解放されます。これが4月14日で、5日後に裁判でしたから、間一髪。

彼が入れられていたのはハンブルクのノイエンガンメ(ノイエンガメ)強制収容所です。ここは絶滅収容所ではなかったのですが、処刑センターになっていたため、連日処刑が行われていたと証言しています。捕虜の処刑が多かったようです。

戦争が終わったのは5月に入ってからです。その前に米軍や赤軍が支配した地域がさまざまあるわけですが、4月14日の解放は早すぎだろと思ってネットで調べてみたら、Wikipediaカール・シュナイダーの項目があって、これよると、最終的な拘留はシュテンダールというところにある地方裁判所の未決囚の房で、連合軍が入る前に解放されたそうです。空襲のため、あるいは裁判所員の避難のために機能停止になって解放されたのかもしれない。

Karl Ludwig Schneider, 1941

 

 

あと数週間戦争が長引いていたら

 

vivanon_sentence

白バラ・リストを見るとわかりますが、裁判の段階ではすでに解放されていた人たちがいます。裁判所と刑務所や強制収容所の場所は違うため、先に被告が解放されても、裁判だけは予定通りにやったのでしょう。

刑期中、あるいは裁判前に、英米軍に解放されるなり、機能停止で解放されるなりした人は、カール・シュナイダーを入れて17人もいます。

処刑場に送られる列車が空爆されて逃げたハインツ・クチャルスキカップ・アルコナ号で生き残ったハインツ・ロードはもちろんのこと、他の人たちもすべて奇跡的に生き残れただけです。ハインツ・ロードは長期の拘禁による体の不調のために、そう長くは生きられなかったですけど。

それもこれもハンスとゾフィーの軽卒な行動が招いた災厄なのです。

 

 

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