松沢呉一のビバノン・ライフ

アマゾネスを出すなら「女はもともと強かった」と言うべきだったのでは?—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[7]-(松沢呉一)

ここに至ってなお「女の役割論」を維持しようとする不可解さ—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[6]」の続きです。

 

 

 

 明治時代の女学校教育から抜け出すべし

 

vivanon_sentence田嶋陽子は、アマゾネスについてロクに調べもせずにあれを書いたのでしょうか。日本でも映画「アマゾネス」が大いに話題になったことを知っているはずの世代なのに。私は中学生でしたけど、テレビや雑誌でもずいぶん取り上げられていたと記憶します。もちろん、平和な農婦集団ではなく、男より強い戦士集団としてです。

あるいはそのことを知った上で、都合のいい解釈をしたのでしょうか。調査の中から都合のいい数字だけを引っ張って他を無視する荒技が神話にも適用されたのかもしれない。都合の悪いことには触れない手法は通用しないと誰か教えてあげた方がいいと思います。

この本は理論書ではなく、個人史を柱にしたエッセイですから、細かなことをあげつらうのは大人げないかもしれないですが、そういう本だからこそ、本音が書かれているように思えます。男と女は本質的に違うのだとの考えに基づく差異主義の本音です。それにしても、そこでアマゾネスを持ち出したら、その論は破綻するわけですが。

結局のところ、田嶋陽子が前提にする「女イメージ」は家父長制が作り出した女イメージと重なります。子どもを産み、闘いを好まず、家から離れないのが女ってわけです。

明治時代までの女はこのイメージで家に押し込められ、働きに出ることさえも容易ではありませんでした。女は家事をすればよく、社会に出る必要などなく、関心を持つ必要もないというのが女学校教育です。そこから田嶋陽子は逃れられていないのではないか。

もし田嶋陽子の言う通りに、本質的に女は争いを好まず、のどかで平和な生活をしていくことに向いているのであれば、生き馬の目を抜くような競争社会には向いておらず、企業が採用しないのは当然であり、政治家にも向いておらず、家事や育児でもやっているのが適切ってことになってしまう。女学校を引き継いで今もそういう考えからできている女子大が多いわけですけどね(田嶋陽子は津田塾出身)。

Caravaggio, Judith Beheading Holofernes (c. 1598-1599) 女国とは関係ない神話ですが、女もやる時はやるってことで、ユディトがホロフェルネスの首を刎ねるところ。このテーマは人気があって、いろんな画家が作品にしています(下の2点も同テーマ)。マゾの私はこのテーマの絵に以前から注目しています。現在国内で巡回しているカラヴァッジョ展でこの作品も展示されるはずだったのに、中止になったそうです。イタリア側の事情としか説明されてないので詳細は不明。カラヴァッジョの絵はこれくらいしか記憶にない。

 

 

明治時代ならわかる夢想

 

vivanon_sentenceもちろん、田嶋陽子は良妻賢母も母性の押しつけも否定しているのですが、だったらなぜあのような話を持ち出すのかがわからない。

アマゾネスを出すんだったら、神話のまま、「女だって男と同じように、あるいはそれ以上に強くなれるのだ」というメッセージを出した方がいいと思います。

この部分は単行本で読んだ記憶がなかったのですが、読んでないはずはなく、迂闊にも当時はスルーしていたようです。今回、ここを読んで「フェミニストとしてはダメすぎる」と思いました。

かつてスルーしてしまったこの部分に気づいてから思い出したのですが、平塚らいてうもこういうことを書いていましたっけね。

これが高群逸枝の母系制研究につながっていくのかもしれないですが、迂闊なことは言えないので、調べ直してからにするとして、明治時代に「女はもともと平和的だった。だから男に支配された」とするのは理解できます。内面化された道徳規範を取り除けと言ったってそうそうできるものではなかったでしょうから、規範から外れない範囲で自己肯定できる道筋を探す必要があったでしょう。

でも、それから一世紀になるのに、まだやっているのはどういうことかと。

 

 

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