松沢呉一のビバノン・ライフ

強制収容所では自殺者がほとんどいなかった—E.A.コーエン著『強制収容所における人間行動』[1]-(松沢呉一)

ナチス・シリーズしては「井東憲の猶太陰謀論—日本におけるユダヤの評価[1]」の続きですが、内容はとくにどこからも続いていないので、独立したものとしてお読みいただけます。

 

 

 

もう読まないはずだったナチス関係の本を読んだ理由

 

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大阪に行く時に、新幹線の中で読む本として、本の山からE.A.コーエン著『強制収容所における人間行動を持って行くことにしました。ナチスの本はもう読まないことにしたのですが、なお気になることがあるのです。

ナチスはユダヤ人であることを見抜くのに包皮のチェックをしたのかどうか」です。ナチスは、先祖がユダヤ人であっても、配偶者がユダヤ人であっても、ユダヤ人としたため(少なくとも非アーリア人とした)、割礼だけでは決定できないですけど、そもそもナチスのユダヤ人判定、あるいはアーリア人判定はいい加減であり、割礼の有無はその中で比較的安定性のある基準ではなかろうか。

とくにヨーロッパではユダヤ人以外は割礼の風習はほとんどなく、手術で切っている人と、ただのズルムケとは区別が可能ですから、ユダヤ人であることの判定として、包皮をまったくチェックしていなかったとは思えないのですが、今のところ、そのような記述は見出せていません。

今こうして私がナチスと包茎を組み合わせることにもいくらかの抵抗が生じるように、ナチス、強制収容所、ホロコーストという重さと包茎の軽さは相性が悪いために記述されていない可能性もあります。包茎は笑いを伴ってしまうために割礼の深刻さが軽視されてきたことともリンクしてましょう。

書かれていれば気づくとは思いますが、これまでそこに注意して読んでいたわけではないため、見逃しているだけかもしれない。収容された人の手記には、どのようにユダヤ人であると判定されたのかについても記述しているものがあると思うのですが、なにしろ私は収容所ものが苦手で、ナチス・シリーズでも、収容所を舞台にしたものは2冊しか読んでないんじゃなかろうか。

ウェンディ・ロワー著『ヒトラーの娘たち—ホロコーストに加担したドイツ女性』にも非道なユダヤ人殺害が多数出てきますが、秘書や妻たちは収容所内には関与しませんので、すべて収容所外の話です。どういうもんだか、そちらだと気が楽です。

そのことが頭にあって、なおかつ二段組みなので、新幹線の中ですぐに読み終えることはなさそうだと思って、強制収容所における人間行動をバッグに入れました。その読み通り東京に戻る前には読み終わりませんでした。新幹線の中ではほとんど寝ていたせいでもありますが。

 

 

収容所に入れられた人々の心理解析

 

vivanon_sentence結論を先に言っておくと、この本でも包皮については書かれていませんでした。

この本の原著は1953年に出版され、1957年に邦訳が出ていて、以降、日本語版も増刷され続け、2000年代に入ってからも増刷されており、収容所ものの定番の一冊になっています。

本書の著者であるE.A.コーエン(Elie Aron Cohen)は1909年にオランダで生まれたユダヤ人医師です。オランダで開業医をやっていましたが、1943年9月16日にアウシュヴィッツに収容され、解放まで生き延びました。これは医師という特権的な地位にあったことも大きいのだろうと思われます。収容所では過去の実績や資格なんてものは剥奪されてしまうので、それをいいことに医師に成り済まして特権を得ていた人たちも少なくなかったらしい。

意外なことに、ユダヤ人の医師は、SSにとっても人気が高かったそうです。SSにはナチスお抱えの医師がいたのですが、そちらよりも収容所の医師の方が信頼されたのは、軍医たちよりもすぐれた医師がいたこととともに、軍医よりも丁寧な扱いをしてくれるためです。収容者の医師はSSに何かあったら殺されますから、手を抜けない。

そういった自身の体験も貴重なのですが、この本は自身の体験談をただ綴ったものではありません。彼の家族は殺されていて、その体験を書くことは相当の困難を伴い、感情的にもなるため、彼は戦争のあと精神医学を学び直すことで、主観的、感情的な記述になることを避け、多くの証言や研究成果に目を通し、自分の体験をその中に位置づけることで、収容所での体験を客体化した本書を書くことができました。

 

 

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