松沢呉一のビバノン・ライフ

休んでいる店・やっている店—コロナの時代に流行るもの・廃るもの[13]-(松沢呉一)

借金に走るキャバ嬢や風俗嬢たち—コロナの時代に流行るもの・廃るもの[12]」の続きです。

 

 

 

休業の貼紙を読む

 

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何が不要で何が不急なのかは個人個人が判断すればよく、緊急事態宣言以降も、私は銭湯を巡っていて、ついでに街を見て歩いています。死んでいく街を眺めつつ、休業告知の貼紙をできるだけ読むようにしています。

チェーン店は多くの場合、統一のつまらない文面でしかなく、個人経営の店でも大半は休業をただ伝えるだけですが、苦渋の決断であったことが読み取れる貼紙があります。そりゃそうだと思うんですよ。

店は続けたい。しかし、感染者が出たら申し訳がない。できることをやって、それに客が納得して利用しているのだから、感染したって店のせいではないと思うのですが、そうはいかないみたいで、しばしば店は叩かれます。

客は行かない判断ができますが、従業員はそうはいかないので、感染したら店に責任が生じます。若い健康な世代だったら重症化しないですが、一部メディアは「若いのも死ぬ」と一部の例を大げさに取り上げたり、データの裏づけなく、若い世代がバタバタ死んでいるようなことを報じていますしね。頼む、アクセス稼ぎのファンタジーではなく、事実を報じてくれ。

COVID-19とはまったく関係がなく書いた「「もうやめたい」と銭湯のおばあちゃんは溜め息をつきながらも銭湯をやめない理由—新・銭湯百景[1]」は、銭湯に限らず、金では割り切れない客商売のある側面をよく見せてくれています。

店は商品やサービスを提供する代わりに金を得るってだけですけど、生活のための手段であるのと同時に、人と人とをつなぐ場にもなります。ナチス政権下では書店が抵抗運動を作り出しだしたのが店の意味合いをよく見せてくれます。

人によっては生き甲斐であり、歴史です。経営する側にとっても、客にとっても。だから、金にならないのにおばあちゃんは銭湯をやめることができません。やめたいけど、やめたくないし、やめてはいけないという思いが生じます。

すでにタピオカ屋が廃業している例を複数見ていて、貼紙が出ているわけではなく、什器が撤去されていることでわかりました。

短期でパッと儲けて撤退するこういう店は別として、店を休業するのはその場を封じることのため、自身の悔しさとともに、客に対する申しわけなさが生じます。休業するのに、客に対して「ご迷惑をおかけします」といった言葉とともに謝罪をしていることがよくあります。

※ここに出したのは錦糸町の日本酒バー「井のなか」のものです。なんの縁もなく、これまで存在さえ知らず、酒を飲まないくせに、「再開したら来よう」と思いました。こういう店には客が必ず戻ってきます。

 

 

休業しているのに、中に人がいる店

 

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再開できるだろうか、再開したとしてまた客は来てくれるだろうかとの不安も生じます。

またお会い出来る日を待ち侘びています」といった言葉はただの常套句なのではなく、本心だと思います。なぜ東日本大震災の時に、常連さんたちは飲み屋に詰めかけたのか。店の人や常連さんの顔をそんな時こそ見たいし、話をして自身の不安を少しでも鎮めたい。

すでに廃業を決定している店がチラホラ出てきているように、このまま再開できない店もあるわけで、いかに休業補償されたところで不安は完全には消えない。

そのことが滲み出していることがあるので、なんの縁もない店であっても、休業の貼紙は素通りしにくい。全部は読んでられないので素通りもしますけど。

 

 

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