社会の矛盾には目を向けなかった久布白落実—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 4]-(松沢呉一)
「久布白落実が書くことは信用できない—矯風会がフェミニズムに見える人たちへ[廃娼編 3]」の続きです。
久布白落実「廃娼運動十年史」と鉢山三郎「廃娼後の妓夫・娼妓は何処へ行く」
もうずいぶん前のことですが、とくに目的があったわけではなく、私の愛読誌である「話」(文藝春秋社)昭和10年3月号を読んでいたら、久布白落実が「廃娼運動十年史」という文章を書いてました。
「ゲッ、『話』がこんなものを出していたのか」と驚きました。悪質な妓楼についての批判的な記事が出ることはあっても、ストレートに矯風会に肩入れするような記事を「話」が出していた記憶がない。
しかし、このすぐあとに、鉢山三郎「廃娼後の妓夫・娼妓は何処へ行く」という一文が出ていて、久布白落実ののぼせ上がった自画自賛を緩和させる内容になってます。「中央公論」「婦人公論」あたりと違って、さすがに「話」はバランスが取れています(こういう人たちが「のぼせ上がった自画自賛」をすることの理由は次回出てきます)。
その内容は、貧困という問題を解消しないまま、公娼を廃止したら私娼に人が流れるだけであり、これに対して廃娼を主張する人たちの間でも意見がまとまっていないことを指摘するものです。
「貧困を解決しなければ売春問題も解決しない。貧困を放置して公娼制度をなくせば、むしろ女たちを追い込むだけ」というスタンスは、伊藤野枝、宮本百合子、鷲尾浩らの廃娼運動批判と共通していましょう。
たとえば国家が性の領域に介入すること自体に矯風会が反対しているのであれば遊廓否定は理解できるとして(そうではないことは、矯風会が法で売春を禁止することを求めていることで明らかですが)、それにしても、親の事情で売春する娘たちが現実にいる以上、そこに目を向けるべきです。
矯風会はどうしてその大元にある貧困や小作農の困窮、女工の労働環境について目をつぶるのかってことです。
こういう批判をされて、そこに問題があることを認めつつ、『新日本の建設と婦人』では、「民族は一家族、自分は思ふ、階級意識に生きるもよし、然し我等大和民族は、善きに悪しきに兎に角一家族である事を忘れてはならない」としています。「貧しさに喘ぐ小作農や労働者が闘うのもいいけれど、大和民族であることを忘れてはならない」と水を差し、現に矯風会はこの問題を直視しないまま、大和民族の恥になるような売春婦潰しに精を出しました。
この矯風会の姿勢は、日本が戦争ができる国家になるために工場が安い賃金で労働者をこき使える必要があって、それに対する労働者の要求は邪魔だったことに関係しているのだろうと私は見ています(「工場法を巡る廃娼運動の不可解—女言葉の一世紀 80」参照)。「大和民族は一家族である」というフレーズにそれが含意されていると思えなくもない。「戦争ができる国家のために貧乏人は我慢しろ」と。
虚構の海外を持ち出すのは矯風会の常套手段
久布白落実による冊子『公娼を廃止したあとの行政』(昭和8年)では、公娼を廃止したあとどうすべきかという内容だと思わせるタイトルながら、具体的な方針は書かれておらず、ただ、各国がどうしているかを書いているだけです。
廃娼派が「海外では」という時にはほとんど必ずと言っていいほど虚偽が入っています。虚偽とまでは言えなくても操作が加わっています。これについては「事実より道徳が大事—道徳派の手口 2」「道徳に反する者の裁きは神の手に委ねよ—道徳派の手口 3」を参照のこと。
『公娼を廃止したあとの行政』では廃娼をしたあと各国の対応は4種あるとしています。
廃娼せし後の国々の状況は千差万別だ。然し之を大別すれば左の四種となる。
一、絶娼を目標として勇敢に進む国
二、公娼制度を全廃し、公序維持任意診察主義を採用するもの
三、公娼制度を全廃し、公序維持強制診察主義を採用するもの
四、原則として公娼制度の廃止に賛するが一時的便法として折衷的法制を採用するもの
この四種である。この外に旧制度を其まま採用していく我国の現在の如きが有る。
虚構の海外を捏造して、「海外では」とやる彼らお得意の手法がここでも発揮されています。
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