松沢呉一のビバノン・ライフ

存在しない人物の存在しない実話—カ・ツェトニック135633著『痛ましきダニエラ(人形の家)』[1]-(松沢呉一)

 

世界は疑惑に満ちている

 

vivanon_sentence小池百合子都知事の経歴詐称疑惑は、決定的な証拠は出て来ないながら、疑惑であり続けています。首席卒業はほとんど否定されていて、それだけでも十分経歴詐称ですけど、卒業証書を代表して受け取る役目などで「首席」を大学側が認定するわけではない場合、はっきりとした証拠を探すのは難しそうです。

政治家の場合は公職選挙法違反ですから、選挙公報に記載していたら、選挙に当選したことを無効にしていいし、選挙公報に出していないとしても、詐称によって得た地位を利用しての当選ですから、どこまでも追及されていいでしょう。

前から言っているように、自分の経歴でウソをつくような人は、他でもウソをつく可能性が高くて、それをもって言動のすべてを否定されるべきではないにせよ、いちいち疑った方がいいと思います。

しかし、この社会ではウソやハッタリは有効です。そんなもんをあっさり信じてしまう人が多数いるから、ウソをつく人が絶えないのです。仮に小池百合子の経歴にウソがあったら、今の地位はなかったのかもしれず、してみるとウソをつく意味があったってことになります。

そのウソで人生を棒に振る人も後を絶たず、リスクが高すぎますから、ウソはつかない方がいいと私は考えてしまうのですが、小粒な人間の考えることかもしれない。

 

 

今回の「疑惑の一冊」

 

vivanon_sentence

どうしてもウソをつきたいのなら、フィクションとしてやればいい。小説や漫画であればウソをつき放題。うまいウソは褒められることはあっても貶されることはありません。

そのはずなのですが、虚構に事実の裏づけがあるように見せかけるテクがあって、これは厄介です。その典型例は曽根富美子の漫画『親なるもの 断崖』で見た通りです。

昨年の台風19号で借りているトランクルームに浸水して被害に遭った本の中にカ・ツェトニック(135,633)著『痛ましきダニエラ—ナチに虐げられたユダヤ娘の死の記録』という本がありました(邦訳の発行は1956年。1963年に新装版が出ていて、そちらは『ダニエラの日記』と改題されている)。

トランクルームに突っ込んでいた本には最近買ったものは含まれておらず、すべて「ナチス・シリーズ」以前に買ったものなのですが、この本は買った記憶がまったくありませんでした。収容所内の慰安所について書いたもののため、おそらく売春の資料として買ったまま、読まずに放置したようです。

今となってはナチスの資料として読みたい。たぶん箱の一番下にあったのではないかと思うのですが、全体が濡れてしまって被害がもっともひどい部類だったので、家に持ち帰って乾かしておきました。

シミがひどいのは表紙や見返しだけでしたが、乾いても、紙がシワシワになり、表紙と本体が外れてしまって、解体寸前です。それでも読むことはできます。

読み始めた直後に「あれ?」と思いました。収容所から送られてきた古着を処理するユダヤ人の作業場から話は始まるのですが、文章が明らかに小説のそれです。「ナチに虐げられたユダヤ娘の死の記録」というサブタイトルから、私はてっきり体験者の手記だと思っていたため、ガックリです。

小説でもいいのですけど、ノンフィクションを期待して読み始めたらフィクションだった場合、その価値はどうしたって下落します。とくにナチスについては私はまだ事実さえも十分にわかっていないので、フィクションを楽しむところには至れない。

読む気力が失せて、第一章(10ページほどです)を読んだところで、翻訳者(蕗沢紀志夫)による後書きを読みました。

以下はその前半。

 

この本は、最初ヘブライ語で書かれ、一九五三年イスラエルで出版されたものの英訳本“人形の家”The House of Dolls(一九五五年)の邦訳である。原著者は匿名のユダヤ人Ka.tzetnik 135633で、ヘブライ語のKa.tzetnikは英語のJail-birdまたはConに相当し、“囚人”を意味している。つまり著者は、ユダヤ人捕虜収容所における自分の囚人番号を用いたのである。この書は、ユダヤ民族のナチによる残虐の悲劇的結末を物語る永劫の遺言として、異常なセンセーションを巻きおこし、出版後直ちにベストセラーになった。これは著者のこの方面に関する第二作で、彼はこの数年前“サラマンドラ”Salamandraを著し、これも問題の書となった。

本書は実在のヒロイン—少女ダニエラの日記、その他のノートをもとにして書かれたフィクション・スタイルの実録であって、これはダニエラが十四歳の高校女学生のとき、メトロポリへの修学旅行の出発に始まる。当時のポーランドはナチの侵攻下にあり、彼女は学友と一緒に捕われの身となって、遂に再び家郷の山河にまみえない。最初ダニエラはユダヤ人町に住まわされ、後労働キャンプに移され、最後に“快楽区”に収容され、ここでドイツ将校のために売春の破廉恥行為を強いられる。“人形の家”というのは、これらの少女—“人形”を収容する売春キャンプの異名である。

これらの残虐と破廉恥に堪えかねたダニエラは遂に放心し、霧の夜道にさまよい出で、見張り塔の監視員の一撃に斃れるのである。身の逃れ出る希みのないダニエラの唯一の願いは、心底を深く秘した秘蔵の日記を大切に保存することであった。ユダヤ人収容所の天井下のタイルのストーヴの上に隠した数冊の日記と、労働キャンプの窓敷居の下の、冷蔵庫と壁の間に挟んでおいた最後の日記、それに“快楽区”で親友フェラから貰ったノートに記した手記、彼女はこれらを自分の生命よりも大事にし、両親に手渡したいと乞い願ったのである。

“フェラなら何だってできる。彼女は戦争が終ったのち、きっとあれを両親に手渡してくれるだろう!” そして彼女の願望はとげられ、この書物が出版されたのだ—貴重な文献として、永劫の記録として。

 

 

next_vivanon

(残り 1078文字/全文: 3519文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ