松沢呉一のビバノン・ライフ

「女は怒ってはいけない」という規範を担った女言葉を女学校が浸透させた—女言葉の一世紀[164]-(松沢呉一)

西川文子自伝『平民社の女』を読んでみたのだが—女言葉の一世紀[163]」の続きです。

不評のため、途中でやめてしまったこのシリーズですが、ほとんどまとめに近い内容を書いていたのを発見したので、それに手を加えて終わらせます。3回続きます。

 

 

三田村鳶魚の「サンガー色を帯びた大名の家庭」

 

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いかに東京の教育家や婦人運動家たちが「女の社会進出は是か非か」なんて議論をやっていても、貧農の娘たちはなんも関係がない。メシを食うために工場に身売りするなり、遊廓に身売りするなり、女中として働きに出るなりするしかない。イヤでも社会進出するしかありませんでした。

その代わり、彼女らは処女性や貞操なんて道徳から自由でした。結婚前からセックスをしていたわけです。娼妓になる段階で処女はおそらく1%もおらず、農村部では結婚後も適当にやっていました

原田皐月による堕胎肯定論は、どこかしらで海外の婦人運動に影響されたものだと思われますが、よくよく考えてみると、日本ではわずか数十年遡ると、「獄中の女より男に」の「私」と同じ決断をしていた女たちが多数いました。

江戸研究で知られる三田村鳶魚は著書『お大名の話』(大正13)の「サンガー色を帯びた大名の家庭」と題した章で、江戸時代の避妊や堕胎について書いています。マーガレット・サンガーが来日して話題になっていたことを受けた文章です。

この本は大名をテーマにしているので、武家の話が中心ですが、もっと広範囲に、かつおおっぴらに、貧農の女たちは経済的な困窮を避けるために堕胎をし、間引きをしていました。

農村部では、明治に入っても医者にかからないまま広い地域で堕胎が行われていたことは調査で明らかになっている通り。また、間引きは地域によっては明治に入ってからも行われていたことは「堕胎が人口増加を抑制した?」に書いた通り。これも多くの場合、女自身で決定して実行していたと思われます。

しかし、堕胎罪により、その決断は徐々に奪われます。それまでは親から子へ方法が伝えられ、あるいはムラの上の世代から下の世代に伝えられてきたのでしょうが、それも憚られるようになっていく。

命の重みや子どもの命の意味が違ってきた以上、野放図に堕胎をしていいはずはないのですけど、近代の方がより女へのしわ寄せが強まったとも言える点、貞操だの処女性だのといった道徳で縛られるようになった点については一考する価値がありそうに思います。

これは性表現にも同じことが言えて、「江戸の春画は素晴らしい」と言うのであれば、「なぜ今この国には刑法175条が存在するのか」について三日三晩考え込むべきです。

 

 

女言葉とともに奪われた「感情の自由」

 

vivanon_sentence江戸から明治、大正、昭和と時代を経るごとに「女の主体性」や「女の自由」は獲得されていくという理解をしている人たちは少なくないと思われますが、これは一面的過ぎ、直線的過ぎる歴史のとらえ方です。戦後に比べて戦前を一律に暗黒の時代とらえることも、性の自由は戦後になって獲得されたと一律に見るのも間違い。

堕胎の主体的決断だけでなく、また、貞操や処女性の強化だけでなく、古い時代の方が主体性も自由もあったように見える点があります。言葉もそのひとつであることはここまで縷々述べてきた通りです。農民においては男女の言葉の差はさほどなく、一般に古い時代の方が女の一人称も「わたし」「わらわ」「おれ」「おら」など多様でしたし、大正期には女学生の「ぼく」もありました。これらの選択肢を消して、方言も消して、女言葉が強いられていきます。

太平洋戦争後は、パンパン、不良、スケバン、レディースといった系譜に「野卑な言葉」の伝統が引き継がれるだけになります。

これとともに奪われたのが「感情の自由」です。

 

 

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