松沢呉一のビバノン・ライフ

集団の言葉と個人の言葉—「ライプツィヒ権威主義研究」から考えたこと[4](最終回)-(松沢呉一)

顕在的姿勢と潜在的姿勢とのズレ—「ライプツィヒ権威主義研究」から考えたこと[3]」の続きです。

 

 

 

必要なのは集団の言葉より個人の言葉

 

vivanon_sentence「難民受け入れ賛成」の人たちの中には、もちろん、世界の国々について詳しい人たちもいるでしょう。学生時代に一年かけて世界を放浪したとか、仕事や青年協力隊かなんかでいろんな国を見て回った人もいるでしょうが、一方には目の前の外国人と交流もしない人たちもいて、そこの矛盾に気づいてさえいないとしたらまずい。気づいていたらとっくになんとかしているだろうし。

「顕在的差別意識」を露わにしないとしても、「潜在的差別兆候」を抱えている人たちはそれなりにいるのだと思います。「同性婚賛成」と「同性間のキスは不快」が同居している人、「外国人受け入れ賛成」と「隣に外国人は住んで欲しくない」が同居している人。

「差別反対、外国人を受け入れろ。でも、ワシは交流しないもんね」という姿勢はやっぱり信用できないです。信用出来ないだけで、否定はしません。たとえば「難民を受け入れるべきだと思うけれど、自分としては黒人は怖いし、アジア人は汚いと思ってしまう感情をどうしても消せない」という人はいるでしょうから。でも、信用はしない。

たとえばSNSのような場で「差別反対」と言っている人がいるとして、その言葉は集団意識上の言葉です。クラスターの多くに共通する言葉であり、それに毛を生やした言葉さえ言っておけば安定する。

対して「潜在的差別兆候」は「個人の言葉」です。何かあった時にポロッと出てくることがありますが、通常は表面化しないし、それは言わない方がいい言葉として認識されていることもありましょう。

国連難民高等弁務官事務所のサイトより、世界の難民数の推移。2020年で2,630万人。過去最高の数字を達成。コロナ禍によって人の移動が制限されているため、受け入れ国に移動することもできなくなっているとあります。このうちの4割程度が子どもです。これは国内難民を含めない数字で、なお増加傾向にあります。食糧や日用品は国連などの機関が援助していますが、それがおっつかない状態になってきています。

 

 

アフリカのことを何も知らない

 

vivanon_sentenceつまらん結論でホント申しわけない—インターネットより狼煙の時代[8](最終回)」あたりに書いているように、「集団に向けた言葉」をもっていても、「個人に向けた言葉」をもっていない場面に直面します。

実のところ、集団の言葉には中身が伴っていない人たちがいるのではないか。周りに合わせているだけ。私もそこが苦悩のしどころ。

難民は近隣諸国や、もともとの宗主国が受け入れることが多いので、アフリカから日本に逃げてくることはさほどないでしょうけど、ギニア人と銭湯で知り合ってもギニアがどこにあるかもわからんです。あの時は彼が銭湯や温泉が好きだったためにそこそこ話が続きましたが、ギニア人と話をする際に「差別反対」と言ったところで、「そうだね」で話は終わります。たいていの場合、集団の言葉はこういう場面にはなんの役にも立たない。個人に向けた言葉をもっている必要があります。

歌舞伎町で客引きをやっているカメルーン人とダベった時も、カメルーンについて知らなすぎて話が続きませんでした。なんとなくあの辺かなとは見当はついても、はっきりとは場所もわからない。

うちに帰ってカメルーンの場所や国内事情を調べました。

 

 

なんとなくあの辺でした。

首都はヤウンデというのか。地理が好きな小学生だったら知っているかも。

付け焼き刃ながら、少しはわかったので、先日彼を探したのですが、見つかりませんでした。他にもカメルーン人はいますし、ナイジェリア人でもSARSや中国での差別を話せばいいので、また話して来ようと思ってます。

飛行機に乗ってCO2を吐き出しながらアフリカ大陸まで行かなくても、報道ではわからないアフリカの事情が聞けるんですぜ。難民や外国人労働者をどうとらえるのかなんて目的がなくても、もっと彼らから話を聞いた方がいいと思います。

 

 

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