松沢呉一のビバノン・ライフ

瀬木比呂志著『絶望の裁判所』でもっとも注目した指摘—第一ラインと第二ラインを見極める[上]-(松沢呉一)

「ボツ復活」です。昨年の4月頃にざっと書いてあったのですが、そのあと書いた記事と内容が重なるところがあったため、そこに組み込もうと思ってペンディングに。ところが、そちらの記事をうまくまとめられなくなって、放置してしまいました。読み直したらほとんど使える内容でしたので、その後の話も加えつつ、出しておくことにしました。もうひとつのボツ記事もこのあとまとめ直して出すかもしれない。

 

 

数年遅れで瀬木比呂志著『絶望の裁判所』を読んだ

 

vivanon_sentenceナチス関連の本は知らない用語や人名、収容所名をいちいち検索しながら読むため、電車内読書用には適切ではなく、積んだままになっていた瀬木比呂志著『絶望の裁判所』(講談社現代新書)をふと手にして銭湯に向かいました。

日本の裁判所が国民の見えないところで、いかに官僚化を進めているのかを裁判官として内部にいた著者から見た好著でありまして、一気に勘で読みました(勘読書についてはこちらを参照のこと)。

裁判所の機構について初めて知ったことが山ほどあって、裁判所についてまるで理解していなかったことを思い知らされました。そのくらい無知であった私は、この本の具体的指摘について判定できる立場にはないのですが、著者には大いに共感したところがあります。

前提になることが理解できていないがゆえのわかりにくさはどうしてもつきまとうのですが、文章は平明であり、論理は明晰。その上、堅苦しくなりがちな内容の中で、いきなり音楽の話や映画、小説の話が紛れ込む点にも好感を抱きました。著者はサブカルが好きなのです。ここ、案外大事なことかもしれない。

著者は自身を個人主義者自由主義者だと位置づけています。法曹界の左派である青年法律協会(青法協)所属の裁判官を潰すブルーパージが完了し、今は著者のようなタイプさえも裁判所に居場所はなく、著者は退官して研究者の道を選択し、現在は研究者にして作家と言ってよく、多数の著書を上梓しています。

絶望の裁判所』は一般向けの著書のおそらく一冊目で、裁判所では上の命令に唯々諾々と従い、出世することだけを考え、その道から外れないように腐心をするのが残り、加速度がついて組織は硬直化していることが本書は鮮やかに見せてくれています。

※『絶望の裁判所』しか読んでないですが、他の著書も読むことになると思います。

 

 

裁判所が硬直化する背景にある日本人全体が抱える問題

 

vivanon_sentence自身の体験から、著者は米国の裁判所と比較して、どうして日本ではこうなってしまうのかについて考察しており、広く一般に日本社会が抱える傾向として以下のように書きます。

 

日本の社会には、それなりに成熟した基本的に民主的な社会であるにもかかわらず、非常に息苦しい側面、雰囲気がある。その理由の一つに「法などの明確な規範によってしてはならないこと」の内側に、「してはかまわないことになっているものの、本当はしないほうがよいこと」のみえないラインが引かれていることがあると思われる。デモも、市民運動も、国家や社会のあり方について考え、論じることも、第一のラインには触れないが、第二のラインには微妙に触れている。反面、その結果、そのラインを超えるのは、イデオロギーによって導かれる集団、いわゆる左翼や左派、あるいはイデオロギー的な色彩の強い正義派だけということになり、普通の国民、市民は、第二のラインを超えること自体に対して、また、そのようなテーマに興味をもち、考え、論じ、行動すること自体に、一種のアレルギーを起こすようになってしまう。不幸な事態である。

これは日本の論壇におおむね右翼に近い保守派と左派しかおらず、民主社会における言論の自由を守る中核たるべき自由主義者はもちろん、本当の意味での保守主義者すら少ないということとも関係している。

 

この分析には大いに同意します。

 

 

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