松沢呉一のビバノン・ライフ

エロカフェーから花びら回転まで—ピンサロの歴史-[ビバノン循環湯 589] -(松沢呉一)

2005年頃にどっかの雜誌に書いたもの。

 

 

おさわりバーの前身、戦前のエロカフェー

 

vivanon_sentenceピンクサロン、略して「ピンサロ」がいつから始まったかについては諸説あって、体を触れたり、キスができたりする飲食店のルーツは戦前に遡る。

大正から昭和にかけて大流行だった「カフェー」は今の喫茶店とは全然違い、喫茶店は喫茶店として当時から営業していた。

対してカフェーは女給が相手をしてくれる飲食店の総称で、飲み物や食べ物を提供するレストランやビアホールも女給がいればカフェーだし、ホステスがいる今のクラブやキャバクラのようなものもカフェーと呼ばれた。作家や画家などの文化人たちが足繁く通って女給をくどいたのはおもに後者のカフェーである。

そういったカフェーが軒を連ねていた銀座の裏通りや場末のカフェーには、エロを売りにする「エロカフェー」があった。当時の女給は和服が一般的で、くらがりで着物の裾に手を入れされたり、胸を触らせたりする。おさわりバーのはしり。あるいはおっパブのはしり。

しかし、この時代はさすがにヌキはなかったようである。営業のあと、待合(のちの連れ込み旅館)に行く店外デートの類はあったし、店の二階でいたすような店もあって、さらには着物の尻に穴が空いていて、本番させるカフェーが浅草にあると当時のものに書かれているのを読んだことがある(発禁になるのではっきりそう書いてあるのではなく、そう読めるってことだが)。本サロのはしりだが、他のもので確認できたことはないため、真偽は不明。

※この店は北千住だったかな。北千住には今も数軒営業している。

 

 

大阪の「指洗い喫茶」

 

vivanon_sentenceエロカフェーをルーツとするおさわりやキスサービスは戦後すぐに登場。焼跡の時代だ。「あと300円出せば、おっぱい触ってもいいわよ」とやる。こういうサービスはしばしば暴力バーやボッタクリバーに引き継がれていく。

では、ドリンクを飲みながら薄暗いところでヌキまでしてくれる店の元祖はというと、これも古くて、はっきりわかっているものとしては、1950年代の後半(昭和30年代の前半)に登場。

場所は大阪で、「指洗い喫茶」と言われていて、当時大阪市内に三十軒以上あったらしい。この名前は指を消毒液で洗ったことからついたもの。指でいじったり、いじられたりするだけではなく、本番の店もあったようである。

一方で、昭和20年代には、戦争未亡人たちを雇い入れたダンスホールができて、この頃は飲んだり、ダンスをしたりするだけの場所だったが、やがては素人が売りの「アルバイトサロン」という業態になって、自称主婦や学生が相手をしてくれる。

その中から、ヌキ営業をするのも出てきて、さらには「昼サロ」として昼間の営業もするのが出てきた。

これらの中にはキャバレーからの転業組もあって、ダンスをするわけではなく、演奏するバンドもいないので、キャバレーではないのだが、キャバレーという名称を使っている店もあったために、キャバレーというと、エロサービスがあるとの誤解も生じさせていく。

これらを総称して「ピンクサロン」と呼ぶようになったのは1960年代のことと思われる。1962年に「ピンク映画」という呼称が出てきて、「ピンク」がエロの代名詞になっていった時代だ。

※これは高円寺。往時の勢いはないが、高円寺でも数軒営業している。

 

 

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