松沢呉一のビバノン・ライフ

田嶋陽子の「私のフェミニズム」という表現は「星占いフェミニズム」であることの告白—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[10]-(松沢呉一)

70歳を前に中山千夏が悟ったこと—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[9]」の続きです。

全国フェミニスト議員連盟によるVTuber排斥問題」「道徳がフェミニズムに見える人たちの仕組み」の流れで、「星占いフェミニズム」について説明しましたが、「田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり」シリーズとして、さらに細かく論じてあったテーマです。この辺は読む人があまりいないですから、「もういいか」になってましたが、さらに詳しくわかるはずなので出しておきます。2019年に書いたものです。念のために言っておきますが、全国フェミニスト議員連盟を私はフェミニストとはとうてい思えないのに対して、田嶋陽子はフェミニストです。その上での批判です。

「星占いフェミニズム」はメタな視点が不徹底の場合に生じると言ってもいいかと思います。これについては「「今ここにいる私」とは別の視点—メタ視力とは?[上]」「メタ視力がないことが問題なのでなく、それを自覚できないことが問題—メタ視力とは?[下]」を参考のこと。以下に書いているように、田嶋陽子自身、このことを十分自覚していると思います。

今回も図版は書いた当時添付していた、香港の民主化運動で闘っていた女子たちです。

 

 

「私の正解」は「社会の正解」に非ず

 

vivanon_sentence田嶋陽子愛という名の支配』のプロローグ(まえがき)で、「私のフェミニズムの原点は母である」と言っており、母親との軋轢を解消したのがフェミニズムでした。他人がどう言おうとこれは田嶋陽子の真実です。そこにはなんの疑問もないし、第三者が口出しするようなことでもありません。

この一文での「私のフェミニズム」という言い方は不自然ではなく、私もまた「私の個人主義は〜」といったように、その特性を抽出して説明することはやりそうですが、これ以外でも田嶋陽子はしばしば「私のフェミニズム」という言い方をしています。ここはある種の逃げにも感じられて、自身、「社会のフェミニズム」ではないと自覚しているのでしょう。

そう自覚しているのは褒められるべきことであり、「さすが田嶋陽子さん」とも思うのですが、にもかかわらず田嶋陽子はそれがそのまま社会に通じるものであるかのように扱っているところに私の違和感、私の批判があります。最初にこの本を個人の物語として読んだ時には気づかなかった決定的な田嶋陽子の欠陥です。

田嶋陽子に限らず、フェミニズムを「自分の生きづらさを解消してくれた」といったものとしてとらえている人がよくいます。これもまたその人にとっての真実ですが、これを「社会のフェミニズム」と錯覚する人たちについては批判しないではいられません。

田嶋陽子やそれらの人々のフェミニズムは星占いや身の上相談と大差ない「個人の解消法」です。それを社会が共有しなければならない理由はない。他者に共有して欲しいのであれば客観性や普遍性が不可欠です。

ここを見据えておかないと、フェミニズムもまた属性に押しつける規範のひとつになります。実のところ、田嶋陽子の書くことにはこれを感じるのです。女は暴力を好まず、平和的に農耕することに向いているかのようなことを書き、旧来の女性像をなぞります。

また、「結婚する女は奴隷である」という物言いもそこに陥ってます。「私の体験」として、結婚を強いるようなパターナリズム、出産を強いるようなパターナリズムに反対しているのでしょうが、これを他者にまで向けると、パターナリズムが押し付ける内容を変えているだけで、押し付けであることには違いがない。

田嶋陽子は母親から押しつけられたパターナリズムの反発から、今度は社会に向けて「私のフェミニズム」を押し付けています。

ここで田嶋陽子が言うべきことは、個人主義に基づいて、「結婚するもしないも個人が決定すればいい」ってことだったのではないか。

※12月5日、香港蘋果日報の中継より。ランチデモで、ビラ張りをするグループ。女子が多く、ジンを作っている人たちとセンスが近そう。つうか、同じ人たちがやっていそうです。

 

 

結婚する女は奴隷だとの決めつけ

 

vivanon_sentence事実としての指摘、傾向としての指摘はいいとして、本質論として「女は〜だ」「男は〜だ」と特定の方向性を帯びた発想は、そこから外れる個人の選択を否定することになりますから、すべて不要。これは差異主義に他ならない。

男であれ、女であれ、結婚するのが幸せなのもいれば、幸せとは感じないのもいる。男であれ、女であれ、政治家や医師に向くのもいるし、向かないのもいる以上、「男」「女」でまとめるべきではない。「あなたは政治家に向いている」「あなたは医師には向いていない」と個人の資質を評価していけばいい。

そうすることで、個人が十全に能力を発揮できれば、トータルとして政治家や医師の数字に男女の偏りが反映されることは無理をしてまで改善する必要がないということになるはず。ここでも判定の基準は性別ではなく、個人です。

個人主義や普遍主義ではそうなると思うんですよ。

 

 

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