松沢呉一のビバノン・ライフ

戦後実現した婦人参政権への期待を潰したのは婦人議員たちの経歴詐称だった—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[下]-(松沢呉一)

柳原白蓮と原阿佐緒の生き方—岡満男著『この百年の女たち—ジャーナリズム女性史』[中]」の続きです。

 

 

新婦人協会の請願を無批判に肯定する岡満男

 

vivanon_sentence岡満男著『この百年の女たち』第二部の第5章は「背徳視にさらされた産児制限運動」で、その冒頭に平塚らいてうら新婦人協会による「花柳病男子の結婚に関する請願書」が掲げられています。これについては「平塚らいてうの優生思想」で取り上げた通り、大いに問題がある請願ですが、著者は無批判にこれを取り上げ、もっともな請願のように評価しています。

優生思想が席巻していた時代のものをその評価が定まった現在の視点で批判するのは好ましくないという意見もあるかもしれないですが、それで言ったらナチスも否定してはいけなくなりかねないし、優生学は一定評価していたにしても、与謝野晶子はあの請願を強く批判していたのですから、同時代でもその問題を見極めることはできたはずなのです。

私もそういう書き方をすることがありますが、「この当時はこれが標準であったが、今見ると」という条件をつけた上で批判をするか、与謝野晶子が批判した事実に触れるに留め、自身の評価を保留することもできます。

これを産児制限運動の冒頭にもってきているように、産児制限運動の中に優生思想が入り込んでいたことは間違いない。劣等な素因は排除すべきであり、その選別を国家がやるべきであると安部磯雄も平塚らいてうも主張していました。

しかし、そこをもって産児制限運動は叩かれ、無視されたのではなくて、この章にあるように、避妊は背徳だったのです。セックスという快楽を貪っていいのは、子どもを生む行為であるとの前提があってのことです。それがなければただの性欲。性欲それ自体を肯定しえなかったのです。だから、オナニーも厳禁。

なおかつ、子どもは国家の宝であり、産児制限は国家の繁栄に背くものでした。だから、産児制限運動家は右翼から狙われました。

婦人運動家ということになっている山田わかは性欲肯定になる点で反対。国家主義者の吉岡彌生はその点でも国家主義の立場からも反対(吉岡彌生が反対したことは本書にも書かれています)。

今なお発展途上国で、人口抑制に手間取っているのも、かつての日本と同じで、子どもを多数残すのが人間としての務めであり、そうすることで幸せになれるし、国家も強くなるという信念が強いためです。そういう頑迷な考え方と闘い続けている各国の担当者やNGOの人たちは本当に大変だと思います。

※岡満男著近代日本新聞小史―その誕生から企業化まで 』 岡満男には多数著書がありますが、今回書いている事情からあまり読む気がしない。

 

 

婦人参政権への期待を潰したのは婦人議員たちだった

 

vivanon_sentenceGHQの指導のもと、昭和20年(1945)、婦人参政権を認める法改正がなされ、翌年4月、それに基づく初の総選挙が行われて、79人の婦人候補者が立ち、39人が当選。しかし、翌昭和22年(1947)には新憲法下で参議院選挙が行われ、85人の婦人候補者が立ちながら、15人しか当選せず。婦人参政権の波はたった一度の選挙で後退しました。

大きな失望になったのは、39人の当選者の中から続々と経歴詐称が見つかったことにあるらしい。たしかに選挙で学歴、経歴は大事です。とくに政治家の実績がない新人はそうでしょう。しかし、この時はご祝儀票が入りますから、そんなことはしなくてもよかったはず。必要だと思ったら、10年後を目指して納得できる経歴を得ればよかったのですが、「必要だったから」ではなく、ただ見栄を張りたかったのだろうと思います。

本書で知るまで、このことを私は認識していなかったので検索してみたのですが、これに触れたものがほとんどない。婦人参政権の恥部だからでしょうか。しかし、個別の例は確認できます。

 

 

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