ウクライナ人が数万人のポーランド人を虐殺—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[3]-(松沢呉一)
「ロシアに降伏したら数百万人のウクライナ人がホロドモールで殺された—ステパーン・バンデーラからアゾフ連隊へ[2]」の続きです。
バンデーラがザクセンハウゼン強制収容所に入れられている間に起きたヴォルヒニアン虐殺
1940年、OUNは方針の違いからふたつに分派。
ひとつはアンドリーイ・アタナソビッチ・メルニック率いるOUN-M。こちらは比較的高い年齢の人々による穏健派です。もうひとつはステパーン・バンデーラが率いるOUN-Bで、こちらは若い世代を中心に、ウクライナ独立のための革命党を目指しました。
OUN-MのMはメルニックのイニシャル、OUN-BのBはバンデーラのイニシャル。人数はOUN-Bが多く、どちらも当然反ソビエトですが、ただ分裂したのではなく、内ゲバをやって双方数百人が亡くなっています。テロを肯定すると、それが内部にも向いて、しばしば内ゲバで殺し合いになります。気をつけましょう。
OUN-Bは1941年、ナチス占領下のリヴィウでウクライナ独立宣言をし、ヒトラーに忠誠を誓いますが、これはリヴィウのグループによるもので、ゲシュタポによって中心メンバーは逮捕されます。
バンデーラはこの時クラクフにいて、この動きに直接関与していないのですが、ナチスドイツにとって、ウクライナ独立を図る存在は邪魔なだけですから、同年、ステパーン・バンデーラは自宅軟禁となり、従おうとしなかったために翌年からザクセンハウゼン強制収容所に入れられます。
バンデーラがザクセンハウゼン強制収容所に入れられている間に、OUN-Bは地下組織化して、ウクライナ蜂起軍(UPA)を結成し、ドイツ支配下となったポーランド領でいくつかの地域を解放して、独立政府を樹立します。この過程でUPAの一部はポーランドで5万人から6万人を虐殺します。この大多数は一般市民です。
これが1943年のヴォルヒニア虐殺です。ヴォルィーニは現在ウクライナ北西の州ですが、当時はナチスドイツの支配下にあったポーランドの一地方です(ヴォルヒニアはポーランドの呼称)。ウクライナ独立を目指すUPAは反独・反ソ・反ポーランドであり、ポーランド人の虐殺もそのひとつってことですが、その手法においてはナチスドイツのポーランド人虐殺が参考になっていたようです。
また、ナチスドイツは、強制収容所が満杯になったため、この地のユダヤ人を強制収容所に送り込むだけでなく、すぐさま殺す方法がとられていたことも参考にしたのだと思われます。
※Wikipediaよりヴォルヒニア虐殺
バンデーラはKGBに殺された
1944年、ナチスドイツは、ソビエトに対抗する勢力として利用できると期待して、ステパーン・バンデーラをザクセンハウゼン強制収容所から釈放しますが、彼は反ソ・反独を貫いて、英国の諜報機関M16に協力し、国外に脱出してウクライナ移民の組織化を図ります。
戦後も反ソ活動を続けてKGBに命を狙われて、ソビエト支配下のウクライナに戻れず、ドイツ各地を転々とします。1954年以降はミュンヘンで暮らし、1959年、その地でKGBのエージェントによって、薬物を撃ちこむ特殊なピストルで撃たれて暗殺されました。
彼がドイツでシュテファーン・ポペル(Штефан Попель)という偽名のパスポートを使って、身を隠すようにひっそりと生活をしていたのは、KGBから逃れるためであるとともに、ナチスの協力者としてドイツやイスラエル政府の追手から逃れるため、また、ヴォルヒニアン虐殺の思想的柱としてポーランド政府から逃れるためだったのではないかとも想像するのですが、はっきりしたことはわからず。
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