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梶山陽平普及部コーチが調布市立第七中学校で講演。「選手をやめてから『表情が柔らかくなった』とよく言われます」【ホームタウン】

 

生徒代表の挨拶に向き合う梶山陽平普及部コーチ。


講演会中の梶山コーチ。


 6月7日、FC東京の梶山陽平普及部コーチが調布市立第七中学校を訪ね、約360名の生徒(全校生徒385名)に向けて講演会をおこなった。
 オリンピックに出場した経験を持つ代表選手、いわゆる“オリンピアン”として、自身がその都度何を考えてきたか、質疑応答を含めて約1時間にわたり淀むことなく話しつづけた。
 
◆余すところなく語った1時間
 

講演会を終えて。


 事前に生徒から募った質問をリスト化し、FC東京の平山隆史ホームタウン推進部長が聞き手として梶山コーチから答えを引き出していくトークセッションの形式。梶山コーチはサッカーを始めたときから現役引退までを余すところなく語っていた。
「中学生となってから本気でサッカー選手をめざし始め、夢というか、目標として常に生活していました」
「高校ではほとんどの時間をサッカーに費やしていたので、週に一日、オフのとき何気なく友だちと過ごす時間が楽しかった」
「サッカーを始めてから去年にやめるまで、一度もサッカーをやめたいと思ったことはなかった」
 サッカー一筋に生き抜いた人間の道のりを実にしようと、生徒たちはその後も梶山の半生についての物語に聞き入った。中学三年生でトップチームの練習試合に出場したときにあっさりと相手に倒されると、プロの先輩にすごく厳しいことを言われた――など、生々しいエピソードもまじり、かなり正直に過去の足跡を開陳していたからかもしれない。北京オリンピックでグループステージ敗退が決まったあと「最後だから自由にやろう」という話をしたときに“造反組”とメディア書かれたことが印象に残っていると吐露する場面もあった。ただこれも、その後の海外組の成長を鑑みると自分で考えることが大切なのだろうという文脈に回収されていて、愚痴ではなく指導者としての言葉になっていた。2018年の末にはこの北京組が10年経ち、10年前に約束していたとおりに再会した様子も触れられていた。
 
◆「夢に向かって努力してほしい」
 

熱のこもったトーク。


 パナシナイコスへの移籍は27歳。Jリーグが終わって一週間後にオファーがあり「これがラストチャンス」と、初の海外移籍を決意した。迷っている暇もなかったという。
 
 やり残したことは

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