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【頼コラム】ある引退〜廣瀬智靖の決意

年明けの1月4日、徳島から「廣瀬智靖選手 引退のお知らせ」がリリースされた。一瞬、「廣瀬智靖」の名前と「引退」の文字が頭の中でうまく結びつかなかった。虚を衝かれたというやつだ。まだまだ若い。しかも、昨季はけっこう試合にも出ていたはず。もしも徳島との契約が満了になったとしても、他に活躍の場を見出すことは十分にできる選手である。なぜ、今、引退なのか。その胸の内を聞いてみたいと思った。山形のクラブ関係者を通じて話したい旨を伝えると、快く了承してくれた。

短い呼び出し音の後、スマートフォンから聞こえてきた声に、思いがけず懐かしさを覚える。2008年に山田拓巳、太田徹郎(柏)、石井秀典(徳島)らと共に山形の新加入選手記者会見に臨んだ日から、幾度となくレコーダーを向け拾ってきた声だ。2014年に彼が徳島に移籍して以来およそ2年ぶりだったが、変わらない話し方にこちらも肩の力が抜けて、何より聞きたかったことを尋ねる。26歳のアスリートに引退を決断させたものは一体何だったのか。返ってきたのは、わずかの曇りもない明快な答えだった。

「ここ2、3年くらいで、セカンドキャリアについて漠然とですが見えてきたものがあって、もしも自分の中でサッカーをやり切ることができたら、そっちの道に進もうと考えていたんです。その中で去年、試合にも出してもらって、充実したシーズンが過ごせた。『やり切れた』という思いがありました」

2015年の廣瀬はリーグ戦25試合、天皇杯2試合に出場。山形でプロデビューしてから8年間のキャリアの中でも最も多い出場数である。J1だった2014年は怪我もあり一桁の試合出場に留まっていただけに、昨季は復活のシーズンと呼べるものだったろう。しかし、その達成感こそが、廣瀬に引退を決意させたのである。

「次の仕事について具体的な話が出てきたこともあり、迷いなくスパッと決めました。中途半端な気持ちでサッカーをやってはいけない、それはサッカーに対しても失礼だと思ったので」

プロになって何年かすれば、選手は嫌でもセカンドキャリアのことを考えるようになる。いや、考えなければならないと言った方がいいだろう。引退など全く現実味を持って想像できない若い選手にも、遅かれ早かれいずれその時はやってくる。そうやって自分の将来に思いを巡らせた時、廣瀬が魅かれたのは服飾の世界だった。

「セカンドキャリアを考えた時、大好きな洋服のことしか浮かびませんでした。サッカーの指導者という考えは全くなかった。自分は感覚的な選手で、感じたままにプレーしていたから、人に教えられるはずはないなと(笑)。じゃあ何をするかと考えたら、僕には洋服しかない、絶対に洋服の道で食っていこうと。他の仕事で食っていくイメージは全く湧きませんでした」

ここでサッカー人生に区切りをつけ、次の道へ進もう。そう決めた。シーズンを終え、監督の小林伸二にも引退の意思を伝えた。山形で4年、徳島で2年、廣瀬はプロ生活のほとんどを小林のもとでプレーしている。新人の時から育ててくれた、いわば“もう一人のお父さん”のような存在だ。「お前、悔いはないのか?」と聞かれたが「はい、ないです」と、迷いなく言えた。小林は「そっか」とつぶやくように言った後、「これからは一人の人間として、別に何か節目の時じゃなくてもいいから、連絡して来いよ」と声をかけてくれたそうだ。

さて、引退を公式に発表する前に、廣瀬には会わなければならない仲間がいた。山田拓巳と太田徹郎である。高卒同期の3人組は、太田が2013年に移籍するまでの5年間を山形で共に過ごした。新人の頃から苦楽を共にし、競い合い、三人が別々のクラブに分かれてからも刺激し合ってきた。だから一番最初に報告したかったという。昨年12月、山田がオフになって帰省するのを待ち「大事な話があるから時間を作って欲しい」と召集をかけた。太田はまだ天皇杯を戦うオンシーズン中で、合間を縫っての短い時間、三人は顔をそろえた。

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