「ザ・ヨコハマ・エクスプレス」藤井雅彦責任編集:ヨコハマ・フットボール・マガジン

大島が横浜に帰ってきて、J1の舞台で再びプレーするチャンスを得たのは、プロ入りから6年、2005年のことだった [大島秀夫コーチインタビュー(1):トリコロールを纏った男たち]

 

実施日:6月21日(木)
インタビュー・文:藤井 雅彦
協力:横浜F・マリノス広報室

 

そそくさとインタビュールームに入ってきた大きな男は、少しバツの悪そうな顔でこう切り出した。

「今日の昼はニンニクたっぷりのラーメンを食べてきちゃったんだよ。イイ香りがしたらごめんね」

 持参したコーヒーを一口飲み、深呼吸して心を整えると「で、何を話せばいいの?」と笑って問いかけてきた。久しぶりに会ったが、人当たりの良さは相変わらずのようだ。

かつて横浜F・マリノスに在籍し、スパイクを脱いだ男たちにフォーカスする本連載。今回は波乱万丈のサッカー人生を過ごし、現在はF・マリノスジュニアユースコーチを務める大島秀夫さんに登場してもらった。

全3回に渡ってお送りする第1回は、プロキャリアのスタートからマリノス加入までの6年間を振り返る。

 

 

 

1980年3月7日生まれ。早生まれではあるものの小野伸二や稲本潤一、小笠原満男、本山雅志、中田浩二、遠藤保仁ら、そうそうたる顔ぶれが並ぶ“ゴールデンエイジ”の一人に、大島秀夫は数えられる。

そのキャリアのスタートは、実に華々しいものだった。高卒ルーキーながら遠藤保仁(現・ガンバ大阪)とともに開幕スタメンに名を連ね、横浜マリノスとの横浜ダービーでプロとしての第一歩を踏み出したのだから。

「バルセロナでヨハン・クライフの右腕として働いていたカルロス・レシャック監督が就任し、先入観なく自分のことを見てくれた。3-4-3のシステムに当てはめて、自分は欧州の用語でいう9番(センターフォワード)のポジションを任されてね。周りのレベルが高かったこともあって、シンプルにポストプレーをしていただけで、あれよあれよという間に開幕スタメンに(笑)。でも第2節で右足第5中足骨を疲労骨折してしまって、今思うともったいなかったなぁ」

 そう話すと、少し悔しそうな表情を浮かべた。その後、リハビリから復帰し、1年目はリーグ戦6試合出場という成績を残している。「高卒3年間は試合に出られないのが普通の時代」(大島)なのだから、高卒ルーキーとしては及第点を与えてもいいのかもしれない。

しかし、ルーキーイヤーの終盤から波乱のサッカー人生が幕を開ける。横浜フリューゲルスは出資会社の経営不振が原因で横浜マリノスに吸収合併される形となり、事実上消滅することに。京都パープルサンガに移籍してからは2シーズンでリーグ戦4試合しか出場できず、契約非更新となった。

「ルーキーの時に開幕戦に出場して、ケガから復帰してからもちょこちょこ試合に出ていたんだよ。99年元日の天皇杯決勝でも真ん中分けの髪型でベンチにいたしね(笑)。移籍してからもそのままの勢いでなんとなくプレーしていて、京都での2年目が終わった時に期限付き移籍になるのかなと思ったら、まさかのゼロ円提示だった。サッカーに対しての考え方が甘かった」

 それが2000年の終わりのこと。その頃、冒頭で名前を挙げた同年代の選手たちは1999年のワールドユースで準優勝し、そのまま2000年のシドニー五輪メンバーの中心に。さらに2002年日韓共催ワールドカップを目指す日本代表に選ばれる選手もいた。

対して20歳の大島は所属クラブを失い、途方に暮れていた。「一度、本当に何もなくなった」と苦い顔で話したとおり、ゼロからのスタートを余儀なくされた。

 

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