【無料記事】なでしこの日韓戦を前に、女子のトップレフェリーについて
閏日にスタートしたリオデジャネイロ五輪女子サッカーアジア最終予選。四大会連続の出場を目指す日本だが、オーストラリアとの初戦でまさかの敗戦。厳しいスタートとなったが、その原因の一つに日本の喫した二失点目がある。
前半40分、中盤の底から阪口夢穂がサイドチェンジしようとしたボールが、主審に当たり、こぼれ球がオーストラリア選手へのナイスパスに。そのままカウンターとなり、失点してしまった。「よけようとして当たるのか。おいおい」と阪口が不満をこぼしたように、日本中の誰もがそう思っただろう。その一方で、川澄奈穂美がいうように「審判は石ころみたいなもの」であり、ボールを当てた選手のミスとなるのがサッカーでもある。
とは言え、女子サッカーの審判員に、日本中が懐疑的になったとも思う。ということで、男子JFLで主審を務め、さらにJ2の第四審判として割り当ても受ける梶山芙紗子氏に、2012年に訊いた女子レフェリーについての前編を、日韓戦を前に再掲する。
■「審判をやらないから審判を分からない」
―梶山さんがサッカーを始めたきっかけをお教え頂ければと思います。
兄が小学生の時にサッカーをやっていまして。父も母も一緒に行くので、私もついていって、いつのまにかサッカーをやるようになりました。
―出身地の京都市上京区はサッカーが盛んな場所なのですか?
そんなことないです。私が所属していたのも、普通のスポーツ少年団ですね。
―とは言え、私の出身の茨城県では、当時、女の子が少年団に入っているのは見かけなかった。稀有な存在だと思います。
一年上と二年上に女の子がすでに居たので、特に違和感を覚えませんでした。ただ、私が入る時には、たくさん引き連れて入りました(笑)。一人で入るのが嫌とかそういうわけではなく、「いっぱい、皆で入ろうや」って感じで、男の子よりも女の子の方が多かったです。
―なるほど。学校とかで、そういったガキ大将的なキャラクターだったのですか?
背も体も一番大きかったんですよ。男の子よりもね。だから、結構、そういったキャラクターだったかもしれません。
―その後、家政学園(現京都文教学園)中、高校に進学しますけど、女子サッカー部はないですよね?
なかったですね。なので、中学、高校と体力作りをしようと、陸上部に入りました。サッカーは女子チームがあるクラブチームが地域にあったので、そこに所属しました。
―姫路学院女子短大に入られて、学校でサッカーができるようになるわけですね。
はい。どうしても、サッカーがやりたくて。
―たとえば、福田正博さんは、嫌々とサッカーをやらされ、サッカーに目覚めた。梶山さんは、中高と陸上をやられて、陸上に目覚めることはなかったのですか?
大学でも陸上をやって欲しいというお話は頂きましたが、でも中高の6年間、ずっとサッカーをやりたいと思っていたんです。陸上部の時も、部活が休みになったらサッカーに行くとか、朝早く行って、朝練の時にボール蹴ったりだとか。それくらい、とにかくサッカーがやりたかった。
―なんで、そこまでサッカーにハマったのでしょう?
憧れの選手がいるとかそういうわけではなくて。動くこと自体が好きでしたし。皆でボールを蹴ったりするのが楽しかったんだと思います。
―個人競技より、団体競技が好きというわけではないですか?
それはあるかもしれないですね。皆でやる方が好きです。
―晴れて部活という形でサッカーができるようになった大学で、審判員の資格、四級審判員を取得されるわけですよね?
当時、私が所属していた女子の大学リーグは、学生が主審や、副審をやったりしなければならず、やむなく四級審判員の資格を取得しました。ただ、取得したのはいいのですが、審判に興味がなく、やりたくないとの思いが強く、まったくやらなかったです。周りに「(審判)やってくれない?」とお願いばかりしていました。そんな私ですから、審判資格も一度失効しています(笑)。
―大学サッカーは、たとえば男子だと結構、異議が多かったりする。監督からのプレッシャーもありますし、プロとさほど変わらない。当時の女子はいかがでしたか?
異議が多いという言う印象は特にありません。私自身が審判をやらなかったため、異議を言われた記憶もないんです。
―そこまで審判をやりたくなかった理由は?
やはり審判をやらないから、審判というものがわからなかったというのが一番だと思います。
―そんな梶山さんが、再び審判員の資格、三級審判員を取得されるわけですよね?なぜ、取得されようと思われたのですか?
大学を卒業し、京都の方に戻って、スポーツ科学の専門学校に通いながら、指導者として活動していました。選抜チームに帯同する時には、笛を吹かないといけない状況になります。監督から、「審判やってくれ」と言われ、「え?」とは思ったんですけど(笑)。ただ、やるからには、ルールを勉強しないといけないので、再度、取得しました。
■「審判もサッカーの一部」
―三級審判員までは嫌々でも取得できます。僕でも取得できるくらいですから(笑)。ただ、二級審判員の試験を見ていて思いましたが、二級審判員からはそうはいかない。なぜ、二級審判員を取得しようと思われたのですか?
最初は言われるまま活動していたのですが、三級審判員として一年間くらい活動していて、大会でお会いするベテラン審判指導者たちにご指導、サポートを頂くなかで「やってみなよ」とのせられ、色々な試合の審判を任されました。そうやって審判として活動しているうちに、“審判もサッカーの一部”なんだ、楽しいなと思うようになりました。そして、“同じやるなら上を目指そう”という気持ちになり、二級審判員にチャレンジしました。
二級審判員になってからは、中学の男子の試合を吹いていました。一日二試合を吹くこともありました。
―中学生でも、保護者がうるさかったり、審判員の難しさがあると思いますが。
そうですね。ただ、審判が嫌になることはなかったです。それよりも、自分が上手くできないことを反省していました。もちろん、自分の中では自信をもって判定しているんですけど、選手たちの反応を見て、「ん?違ったのかな?」と思うこともありました。PKの判定を下した時に、正しい判定だったかと振り返ったこともあります。
―そして、2005年に女子ではトップの女子一級審判員(女子一級審判員は一級審判員のひとつ下の級)を取得されるわけですね。
三級審判員の時からの“同じやるなら上を目指そう”と考えていましたし、ちょうど大岩真由美(現:JFA理事)さんが、女性初の一級審判員(注:一級審判員はJリーグの笛も吹ける。大岩氏は現役時JFLを担当)を取得されていたので、私も続けという感じですね。
―審判としてハードワークされるわけですが、その間、専門学校を卒業されてからのお仕事は何をされていたのですか?
整形外科に勤めていました。その後、一度、別の仕事につきましたが、現在は整形外科で働いています。
―2011年梶山さんがJ2の第四審判員を任されました。
たまたまですね(笑)。。大岩さんがJFLへの扉を開いて、その先にあるJ2はたまたま私がそのタイミングにいた。なでしこジャパンの活躍で日本女子サッカーのみならず、日本の女子審判員にもスポットが当たっています。いままで、女子の審判、女子サッカーが注目されない時代でも先輩たちが頑張ってこられた。そういった先輩たちの頑張りがあっての、現在の自分でもあると思っています。
私は現在、昨年に一級審判員を取得してからは、ずっとJFLの試合を吹いています。
■「女子では起きないラフなファウルが男子にはある」
―JFLには元Jリーグで活躍していた選手もいて激しいし、実際にJ2クラブを天皇杯で破るチームもあります。
JFLの試合を担当して戸惑ったのは、女子では起こらないファウルが起きるということ。男子の大学リーグや社会人の上のリーグを吹いていなかったので、経験が不足していた。こういう時にこういうファウルが起こるという予測ができなかった。
―女子では考えられないファウルとは?
一番多いのは競り合いの時の肘ですね。最初は、競る前に押すかどうかしか見れていなかった。肘というのは、そこを見ようと思わなければ、見ることができない。最初の試合で、肘を見極められなくて、当たったことはわかったのですが、事象にフォーカスしきれていなかった。。ただ、試合を積み重ねていく中で、色々と冷静に考え、判断できるようになってきたので、今はその環境を楽しんでいます。JFLはなでしこリーグの試合よりも、コミュニケーションをよく取りますね。選手から話かけてくれることも多い。もちろん難しい所もありますけど、楽しく、やりがいもあります。
>>>後編は有料記事となります。
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